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イチローだって指導者としての指導を受ける必要はあるんです!

良い指導者との出会いは子供を生まれ変わらせる

 今回も古い話で恐縮ですが、1990年代に千葉ロッテマリーズが千葉マリンスタジアムに県内の少年野球チームを招いて、子供達にワンポイントレッスンをするというイベントに取材に伺ったことがあります。まだ、マリーンズが千葉にフランチャイズを移してからそれほど経っていない時期でした。

 グランドの一杯に広がったユニホーム姿の子供達が、チームごとに現役選手やコーチたちから指導を受けるというイベントです。そんな中、トスバッティングのコーナーで、とても小柄な子供が筆者の目にとまりました。周囲の子供たちと比べても背が小さく華奢で、バットを振るというよりも、バットに振り回されているそんな印象の子供です。周りを囲むチームメイトの子供達も指導者も笑いながらその様子を見ていました。

 そこにやってきたのが、おそらく当時バッティングコーチだったでしょう、のちにマリーンズの監督も務めた山本攻児氏(2016年没)です。身長180cmを裕に超える長身の彼がその子供の脇に身をかがめ、一言二言何か言いながら、体を2、3箇所を触ってから、再びバッティングをするように促しました。

 すると、それまで一度もかりすりもしなかった彼のバットが、確実にボールに当たり始めたのです。その様子をしばらく見ていた山本氏は、もう一度、子供の体を触ります。次にバットを振り始めた時、その子供のバットは全てのボールを芯で捉え快音を響かせるようになったのです。周囲の子供達も大人もただただ無言で、呆然とその様子を見るだけでした。筆者が、優れた指導者に出会うこと大切さを痛感した出来事です。

 少年野球は、私の子供の頃、そのずっと前の時代からお父さんコーチの皆さんの手弁当精神に支えられ、そこから現在もプロ野球で活躍するような選手たちや指導者たちも育ってきました。かつてに比べれば状況は変わりつつあると思いますが、他の競技、特に世界的にも指導者育成システムが確立しているサッカーと比べると隔世の感があります。

 野球には、「名選手必ずしも名監督にあらず」という言葉がありますが、この監督という言葉を指導者に置き換えても同じでしょう。また、逆に名監督必ずしも名選手にあらずということも言えるでしょう。

イチローが受講した「学生野球資格回復研修会」とは?

 今回イチロー氏が受講したことで、一躍有名になった「学生野球資格回復研修会」(学生野球資格回復制度 研修会)はプロ野球で活躍した人や指導者が、学生選手を指導するためのプログラムだそうです。筆者も今回、その存在を初めて知りました。

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 特に子供から高校生、さらに大学生を対象とする指導を行う場合には、プロ野球選手だったという経歴は、決して絶対条件でも、必要条件でもありません。例にあげたようなワンポイントでの指導であれば、それでも良いかもしれません。しかし、技術指導だけであっても、継続的に指導する場合は、指導者としての知識が必要となるはずです。

 この「学生野球資格回復研修会」は、1961年に中日ドラゴンズが起こしたプロアマの確執の原因となった、いわゆる柳川事件に由来するもののようですが、そうした過去の経緯に関わらず、実際に指導を行う前に指導者としての研修制度があるのはとても良いことだと思います。

 選手と指導者との違いは歴然としています。選手は周囲からの情報を自分自身が体現すればよいですが、指導者はそれを的確に、しかも相手に合わせて伝える必要があります。長く選手として活躍したきた選手が、指導者として思い通りいかない可能性も十分にあると思います。そうした状況の中で、指導者としてのプログラムの受講経験は決して無駄にならないはずです。

 また、プロ野球や潤沢な予算がある都市対抗野球に出場するようなチームであれば、多くのスタッフが関わり役割が細分化できるかもしれませんが、学校の現場や街の野球チームではほとんどの場合、多くの役割を数少ない指導者がこなすしかなく、たった一人ということもあるでしょう。そうした指導の現場で指導者として求められることは、野球の技術的な知識だけではないことはもちろん、選手時代の名声でもありません。

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野球以外の競技では進む指導者育成プログラム

 最も積極的に指導者育成プログラムの拡充を進めているサッカーの場合は、日本サッカー協会が設定した指導者プログラムを受講しライセンスを持っていないと、指導やコーチができない方向に進んでいます。例えば、Jリーグや日本代表の監督になるためにはS級ライセンスと呼ばれる最上位のライセンスを取得する必要があって、そのライセンスの取得には、日本代表選手であってもC級ライセンスの取得から始まって、B級、A級と指導実績を重ねてS級を取得するまで最低でも6年前後かかる見当です。ですから、野球のように引退後すぐに監督になることはあり得ません。Jリーグだけでなく少年サッカーに至るまで、様々にカテゴリーにそれぞれの資格が用意されて、公式戦に出場するチームに適応されています。サッカーではこうしたプログラムが世界的なスタンダードですし、そうした指導者プログラムやライセンスがサッカーだけの特殊なものかというと、むしろ全くそうしたシステムがない野球の方が特殊になりつつあります。

 もちろん、この傾向は日本だけではありません。日本では現在大学スポーツのさらなる振興とビジネス化を目指して、日本版NCAA(全米大学体育協会)化の導入を進めていますが、その本場、アメリカの場合、NCAAに加盟する大学ではNCAAで決められた指導者育成プログラムで資格をとった指導者しか指導することができません。NCAAが20世紀冒頭に多発した学生選手の死亡事件から学生を守るために誕生したことを考えれば当然のことでしょう。言うまでもなくこのNCAAのプログラムには野球も含まれてます。またヨーロッパの多くの国では、スポーツの指導者が指導資格を得るために、大学での講義を受講し単位を取得することを定めています。そのライセンスの取得では、一部の実技などで免除されるなど優遇はありますが、選手としての実績は関係ありません。

日本スポーツ協会が取り組むプログラムとその内容

 日本スポーツ協会では、加盟するスポーツ団体のそれぞれの競技の指導者育成プログラムの拡充を進めています。実際には、体育協会自身でプログラムを作るのではなく、それぞれの競技団体が指導者育成のプログラムを構築し、それを体育協会のプログラムとする形を取っています。日本スポーツ協会のホームページでは、それぞれのプログラムのカリキュラムを見ることができます。

公認スポーツ指導者概要 - JSPO

 先行事例として紹介したサッカーでは、下から2つ目のC級から、B級とA級のプログラムが体育協会のプログラムに当てられているので、特徴的な内容を紹介してみましょう。

 C級では、トータルで39.5時間のプログラムの内14時間が座学にあてられていて、その中には「発育発達」「メディカルの知識」「コーチング法」「指導者の役割」などのカリキュラムがあります。B級では「フィジカルコンディショニング」「グループディスカッション(暴力根絶)」、A級では「チームビルディング」「チーム統率」「プレゼン実習」など、指導者として必要な要素が並んでいます。

 サッカー以外のメジャーなスポーツで言えば、バスケットボールでは「スポーツ・インテグリティ」「コーチの役割」「伝え方と質問の仕方」「コンディション」、バレーボールでは「指導者のあり方」「バレーボールの医学」「ゲーム分析法」など指導者にとって必要なプログラムが多く見られます。

 サッカーのようにライセンス取得のために高額な講習料を徴収し、ライセンス取得やその更新が必須とする制度を作ることで、協会の安定的な収入を確保し、指導者のための指導者の食い扶持確保の意味合いも少なくないですし、必ずしも資格であることが必要だとは思えませんが、講習のカリキュラム内容が選手としての技術や経験とは別物で、指導者として必要な情報であることは間違いありません。

選手としての経験だけを元にした指導は過去のもの

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 今回のこの学生野球資格回復研修会をイチロー氏が受講したことに、プロ野球関係者から、イチロー氏ほどの実績のある人に今更何を教えるだ、という研修会制度に否定的な意見が数多く出されているようです。

 ある程度の年齢までの指導の現場では、子供自身がビジュアルで得た情報を元にそのアクションを体現すること、簡単に言ってしまえば優れたプレーを真似することがレベルアップの大切な方法であることは間違いありません。そのために優れた選手、または選手だった人が指導の現場や身近にいること自体にメリットがあると思いますが、指導者としてはそれだけでは足りません。例えば、体の構造を理解するために運動生理学の知識も必要ですし、子供を教える場合には成長についての知識も必要になります。何より、指導者として不可欠な伝えるという技術が必要になります。最初に紹介した山本氏が子供に的確なアドバイスができたことは、彼が名選手だったからではなく、優れた指導者だったからではないでしょうか。

 記事にある張本氏のコメントで最も理屈に合っていないことは、イチロー氏がプログラムの受講の必要を感じて、熱心にプログラムを受講していたことです。イチロー氏自身が、指導者になるために指導者としての指導を受ける必要があることを知っていたということです。

 今後、スポーツの指導現場では専門性を求める声が益々高まっていくことでしょう。その専門性の中で名選手であったことはほんの一部に過ぎませんし、それがなくても優れた指導者は数多くいます。選手としての経験値だけを元に指導をする時代は既に過ぎています。今後、スポーツの選手育成の現場で求められるのは指導者としてのスペシャリストです。そのための第一歩として「学生野球研修会」のようなプログラムが存在することは、元選手たちやコーチたちにとってもとても有意義なことです。

 子供たちの野球離れが叫ばれて久しいですが、ナンバー1スポーツとしての復権のためにも野球界も他の競技同じように年代別の育成プログラムと、指導者を育成するためのプログラムの確立が急務です。