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サッカーの代表監督としての資質とは?

代表監督に求められる二つの条件とは

 古い話で恐縮ですが、1990年代半ば、たまたまJリーグの試合会場で、オランダから来たサッカー記者の方と知り合って、取材後お酒を飲みながら話をする機会がありました。彼は当時、まだ極東で立ち上がったばかりの新リーグで指揮を執っていたヨーロッパ出身の監督や選手たちの様子を取材に来ていたのです。

 話が日本代表に及び、代表監督に必要な条件という話になりました。彼があげた条件は二つ。一つ目は試合に勝つこと。二つ目は代表チームが目指しているサッカーを国民に伝えること。この二つが揃えば最高ですが、二つ目だけでも、言っていることと実態が伴っていれば、ある程度の期間国民は見守ってくれるそうです。むしろ一つ目の勝つだけではサッカーの質が低ければ、首が危なくなる可能性があるという話でした。

 代表監督でなくても、先日のFCバルセロナ監督更迭などはこの考えに当てはまるかもしれません。そして、日本で代表を指揮した外国人監督は、事実、よく喋り、自説を唱え続けました。

 例外は、ドーハの悲劇ハンス・オフト監督と、ブラジルワールドカップを指揮し、ザックの愛称で親しまれたアルベルト・ザッケノーニ監督です。この二人に共通することは、共に日本代表を指揮するまで代表チームの監督経験がなかったことです。

 ザッケローニ監督はワールドカップ出場を決めてから、本大会での目標を一度も具体的に口にすることがなかったはずです。このためとは言い切れませんが、本田圭佑を中心とする選手たち自身が掲げた「優勝」の言葉だけが先行しましたが、結果はみなさんがご存知の通りのグループリーグ2敗1分の最下位に終わっています。

 フィリップ・トルシエジーコイビチャ・オシムハビエル・アギーレヴァヒド・ハリルホジッチ。初出場のフランスワールドカップ以降の外国人監督を並べてみると、きっと担当記者は、長い長い記者会見と質問を無視した持論の力説ばかりの質疑応答に、ずっと頭を悩まされていただろうと想像してしまいます。このメンバーの中に入ると、一度話し始めるとなかなか止まらないジーコでさえ寡黙な人に見えてしまいます。

 この中では、ジーコだけが代表監督の経験がありませんでしたが、そのジーコも含めて、ともかく持論をよく喋りました。もちろん、その内容がピッチ上で実現されていたか、結果を出していたかどうかは別にして、彼らは発信し続けることの必要を知っていたんだろうと考えられます。

 一方、ワールドカップ本戦の指揮を執った日本人監督は、岡田武史氏と西野朗氏の二人です。この二人もまた日本人監督にしては弁が立ちます。但し、西野氏は大人数の前で話をすることはあまり好きではないようです。

西野、岡野氏両氏は、監督経験なく代表監督になっている

 西野氏と岡田氏には共通点があります。代表監督になる前にクラブチーム等での監督経験が全くないことです。西野氏の代表監督の世界デビューはワールドカップではなく、「マイアミの奇跡」を起こした1996年アトランタオリンピックです。

 1990年に現役引退した西野氏は、翌年91年にコーチとしての経験もないままU20日本代表の監督に就任。このチームではアジア予選で敗退しますが、1993年にアトランタオリンピックを目指すU23代表監督に持ち上がりの形で就任します。1955年生まれの西野氏は、当時30代後半でまだ比較的若く、若い選手たちの気持ちが理解できるからなどが就任の理由に話されていた、まだそんな穏やかな時代でした。

 岡田氏は西野氏と同じ1990年に現役を引退して、現役時代にプレーした当時の古河電工のコーチに就任。Jリーグ開幕以後はジェフ市原のサテライト(2軍)や育成年代のコーチを務めていましたが、フランスワールドカップで初出場を目指す加茂周代表監督にコーチとして招聘されます。この代表コーチ就任も大抜擢でしたが、さらに劇的な運命が岡田氏を待ち受けていました。

 予選の途中、ワールドカップ出場がピンチに陥ると、サッカー協会は遠征中にも関わらず加茂監督に更迭し、岡田氏を代理監督として次戦から日本代表の指揮を執らせます。その後の予選6試合を無敗で乗り切りワールドカップ出場を決めた岡田氏は、ようやく正式に日本代表監督になって、ワールドカップが開催されるフランスに乗り込むことになるのです。

 ちなみに、日本人として初めてのプロ監督になり、日産自動車横浜フリューゲルスで屈指の実績のあった加茂氏を更迭して、監督経験が全くない岡田氏に指揮を任せる決断をしたのは同時の日本サッカー協会のトップで会長の長沼健氏でした。長沼氏は、強豪のアルゼンチンを破ってグループリーグを突破した1964年東京オリンピックと、日本サッカー史上フル年代の世界大会で唯一のメダルを獲った1968年メキシコオリンピックで、日本代表監督を務めた人物です。長沼氏は、この当時まで、日本のサッカー史上、国際舞台で最も結果を残した代表監督だったのです。近年の日本サッカー協会にはない、厳しい判断と決断ができたのは、長沼氏の持つ資質によるものだったかもしれません。

 西野氏と岡田氏は、チームでの監督経験を持たずに指導者として早い時期に世界大会で代表監督を経験し、その後Jリーグでの経験を経て、再び代表監督として、日本代表をワールドカップ本戦でグループリーグ突破に導いているのです。共に、二度目の就任では外国人監督に代わって急遽就任したことも共通しています。

人に任せられることも代表監督の大切な資質かもしれません

 筆者は、このJリーグでも屈指の名将と言われてる二人の監督に、人格的な共通点を見出しています。彼らはどちらも人に任せることができることです。

 西野氏のガンバ大阪監督時代、選手たちは監督が細かいことはほとんど何も言わないと言っていました。横浜マリノス時代の岡田監督も同じです。共に信頼できる副官的な存在のコーチを脇に置いて、戦術的なことも含めてかなりの部分をコーチに任せていたはずです。

 ロシアワールドカップでの西野監督の様子はわかりませんが、南アフリカワールドカップの岡田監督の元には、大木武大熊清両コーチ、加藤好男GKコーチの経験豊かで、それぞれにしっかりとした戦術論やトレーニングプログラムを持つコーチ陣がいました。大木、大熊両氏はJリーグや年代別代表の監督経験があり、加藤氏に至って日本人では当時二人しかいなかったFAの上級指導ライセンスを持っていました。岡田氏の任せるというやり方を生かしたものだったのでしょう。

クラブチームの監督と代表監督は別の仕事

 代表監督とクラブチームの監督の仕事は全く違うようです。フランスワールドカップで日本代表を指揮をとった後、コンサドーレ札幌の監督になった翌年に、岡田氏にお話を伺ったことがあります。彼は代表監督しか知らない状態で初めて札幌の監督になって、しなければいけないことの違いに驚いたと話をしていました。その話の通り、1年目の札幌は目標だったJ1復帰を果たせていません。代表チームでの監督経験が必ずしもクラブチームで監督に活かすことでできないのと同じように、クラブチームでの経験や実績が必ずしも代表監督の条件にはならないでしょう。

 少し極端な例かもしれませんが、J2でチームの成績をアップしてJ1に昇格させることができても、その監督が引き続きJ1で指揮を執ると、必ずと言って結果を出せない監督がいます。少しサッカーに詳しい人なら、J2では勝てても、J1では勝てない、そうした監督が何人かいるのをご存知だろうと思います。レベルと言ってしまえばそれまでですが、戦い方の違いなのか、要求の違いなのか、おそらく監督としてやるべきことが違うのだろうと思います。

 クラブチームと代表では、それ以上に違いがあるでしょう。クラブチームで輝かしい結果を出したとしても、国際舞台、特にプレッシャーのかかる公式戦では、結果を出せるとは限りません。日本サッカー協会は、そうしたことを踏まえて、西野氏や岡田氏の例を参考に次なる代表監督を育てるということも方法です。

 

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