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私たちはオリンピアンに何を求めるのか?

とどまることを知らない瀬戸大也選手へのバッシング

 東京オリンピックに競泳での出場が内定している瀬戸大也選手は週刊誌による不倫報道をきっかけにして、激しいバッシングを受けていて、止まる様子がありません。

 これまでスポンサーとの契約解除、JOCのシンボルアスリートの辞退などの影響が出て、今後国内公式戦への出場資格を失っているという報道もあります。何より、こうした状況では本人が心理的ににも物理的にもトレーニングに取り組めないことも想像に容易いです。

 最近では、彼が獲得している東京オリンピック内定を返上しろというスポーツライターによる記事まで掲載され、驚くばかります。

瀬戸大也選手が、自ら「東京五輪内定」を辞退すべき理由(ダイヤモンド・オンライン)

 筆者は、そもそも不倫が日常的にそこら中で行われているだろう日本で、これほどまでに不倫に対して厳しく攻撃されることが不思議ですし、ネット上やSNS上ではその不寛容さが著しく増幅されているように思います。

瀬戸選手がバッシングされる理由

 さて、瀬戸選手はなぜバッシングを受けることになったのでしょう。

  1.  不倫という不道徳な行為そのもの
  2.  瀬戸選手またはアスリートのイメージに対する裏切り
  3.  世間、スポンサーを騙していた
  4.  オリンピアンやオリンピックの権威や尊厳を傷つける
  5.  本来被害者でもある妻に謝罪させた
  6.  本人が謝罪会見を開いていない
  7.  電通の子会社である所属事務所がメディアに圧力をかけて報道されていない

 次々出される続報もあって、その理由もさらに多様化しているようですが、第1報をベースに記事や投稿をまとめるとこんなところだと思います。

 

 1の「不倫という不道徳な行為そのもの」は、人それぞれの倫理観、道徳観の上に成り立ちます。間違っている行為、褒められない行為であるのは間違い無いですが、あくまでも道徳上、倫理上の問題であり、それを行なったのが誰であろうとも、本質は当事者と双方の家族に帰する問題だと思います。

 2と3の裏切りや騙していたという考え方は連動しています。騙していたと言えば騙していたことになりますが、瀬戸大也という一人のアスリートが、清廉潔白で不倫などするわけがないというイメージは、不特定多数によって作り上げられたもので、そのイメージと現実とのギャップの責任を瀬戸選手に負わせようとするのは、あまりにも大き過ぎると思います。また、彼だけでなく、全てのオリンピアンやトップアスリートにそうした期待を持つことは、幻想に過ぎないのではないでしょうか。

 4のオリンピックの権威などを傷つけたという指摘については、スポーツの世界で仕事をしてきた筆者の立場で言わせて頂くと、多くの方々の勘違いです。もちろんメディアがそれを誘導してきたことも事実ですが、オリンピックの実態は営利的なスポーツイベントであり、世界一を競う競技会の集合体にすぎません。これに国家の政策や威信などというものが絡んで、さらにえげつないものをなっています。オリンピック代表=国民の代表という考え方も、ここには影響しているでしょう。

 オリンピック憲章を読んで見ろという方がいらっしゃいます。私はずっと以前から何度も読み直す機会がありますが、毎年のようにIOCの都合で書き換えられていて、どれが最新なのかわからなくなるほどです。そして、少なくとも、前半に掲げられている理念と実態が伴っていないことは間違いありません。

 また、長々と書かれたオリンピック憲章の中には、アンチドーピングなどのオリンピックへの参加資格が記載されているのみで、参加するアスリートの資質や尊厳、彼らの権限などに関する記載は一切ありません。

 オリンピック憲章|JOC

 5と6は、謝罪会見を開いていないことや妻に謝罪をさせてことは、あえて言えば事務所も含めた戦略ミスかもしれませんが、不倫という個人、家族の問題をどのように捉えるかによって対応は変わってきます。ネット上では、さる俳優のように速やかに記者会見を開いて謝罪すれば良かったと書かれた記事もありますが、そもそも記者会見をしなければならない理由はなんでしょう。さっさと記者会見を開いて、記者たちのどこから持ってきたのか分からない正義感の欲求を満たすことが沈静化の近道なのかもしれませんが、早くても遅くてもそれをしなければならない理由はありません。

 7の「電通の子会社である所属事務所がメディアに圧力をかけている」という話がまことしやかにネット上で言われていますが、これを実際に確認した人はいないはずです。想像でしかありません。まずは、その想像を断定口調で事実であるかのように伝えるネットメディアにも大きな問題があるでしょう。

 筆者は、担当者のそれぞれの対応にもよるので、100%あり得ないとは言い切りませんが、大手メディアが扱わないのは、彼がテレビやメディアが主戦場である芸能人やタレントではなく、アスリートであることが主な理由だと思います。もちろん、金メダル候補への忖度だという言い方もできますが、そうした忖度ができるのも彼の行為が犯罪でもなければ公のものでもないからです。

 もう一言加えれば、事務所に大手メディアを止める力や意思があるなら、週刊誌の第一報もないはずです。

オリンピアンはどうしてオリンピアンであるのか?

 オリンピアンだけでなくトップアスリートは、自らが頂点を目指した競技に対する弛まぬ努力とその結果によって賞賛され、その地位を得ています。それまでの過程では本人や家族が多くの犠牲を払い制約を受けることで、成り立っているのです。

 どんなに見た目が良くても、性格が良くても、知的なトークができても、競技で結果を残せなければ、彼、彼女が望むポジションには立てないのです。とは書いたものの、中にはビジュアルだけで注目されて、例えばオリンピックに出場できる可能性など微塵もないのに、あたかもオリンピック候補であるかのように紹介されるアスリートがいるのも事実です。

 筆者は、トップアスリートに清廉潔白や爽やかさを求めること自体が誤りだと思っています。そもそも彼らは、人一倍強い競争心とエゴイズムを持っているからこそ、ライバルたちを押しのけ、蹴落として、そのポジションにいるのです。強いナルシズムを持つアスリートも少なくありません。自分一番、自分大好きちゃんであることは、むしろトップアスリートになるための資質の1つだと言っても良いと思っています。

 しかし、ステップアップの過程で、競争心やエゴイズムとは別のメンタル的な側面を手に入れるアスリートもいるようです。極たまに人格者とも言えるトップアスリートに出会うことも事実です。おそらく、極限まで自分を追い込んでトレーニングすることで生まれる境地だとは思いますが、その崇高なメンタリティを全てのアスリート、オリンピアンに求めるのは誤りでしょう。

広がる非難と影響

 非難の対象は、瀬戸選手に対して厳しい姿勢を見せない、日本オリンピック委員会(JOC)の山下泰裕会長や橋本聖子五輪担当大臣にも及んでいるようです。

 どんなに有名であってもいちアスリートに過ぎない彼の不道徳な言動に対して、直接管理する日本水泳連盟であればまだしも、統括団体であるJOCが処分する必要があるでしょうか? もちろん、例えばSNSで第三者を誹謗したり傷つけるような行為に対しては断固たる態度は必要ですが、今回の問題はあくまでも本質は当事者と家族の問題です。PRの一環であるシンボルアスリートに相応しくないといういう意見には理解はできますが、競技結果や記録に基づく代表の資格の剥奪などに直結する議論はもっともっと慎重であるべきだろうと思います。

 また、国会議員のような公人であるならまだしも、彼のようなアスリートを国務大臣が名指しで批判したり、自らの手で罰するような国がどんなに恐ろしい国であるか、理解できているのでしょうか。国が個人を罰するのは、法律に違反した時に限定されなければなりません。

 一方で、ANAと味の素がCMなどの契約を解除したのは致し方がないでしょう。企業が瀬戸選手に求めるイメージが崩れたことは事実で、放置していては広報戦略に多大な影響があると判断してもおかしくはありません。

 そこに違約金みたいなものが発生するかは別の問題です。契約期間の未完分を返金すれば、企業から見ると具体的な損失はないので、日本の法律では損害をお金に換算して請求することは難しいかもしれません。ここでは、電通の子会社に所属していることがプラスに働くかもしれません。

 ANAの所属を失ったために公式戦に出場ができなくなったという報道もあります。個人競技である水泳で、大会のエントリーが未だにチーム経由というシステムが報道通りであれば、それも驚くべきことで、瀬戸選手の問題に関係なく水泳の普及のために早急に改善すべきとは思いますが、瀬戸選手自身に今後も泳ぎ続ける意思さえあれば、彼のエントリーに関する解決方法はいくらでもあります。直ぐに競技生活云々の問題ではないはずです。

私たちはオリンピアンに何も求めているのか

 私たちは、オリンピアンやトップアスリートに何を求めてるのでしょう。

  1.  金メダル
  2.  感動
  3.  国民への感謝
  4.  優れた人格
  5.  オリンピアンに相応しい言動、アスリートらしい言動スポーツマンシップにのっとった言動
  6.  受けた補助金などに相応しい活躍と行動
  7.  国や国民への忠誠

 個人競技でもチーム競技でも、本人も金メダル、優勝を目指してきたのですから、この期待には甘んじて受けることになるでしょう。しかし、それが国同士のメダルレースや国の威信のようなものとリンクすると、本来持つメダルの意味が違うものになってきます。メダルは本来、国や国民のためのものではなく、本人と家族、直接的に支援してきた人たちのものです。

 また、高い期待を抱かせ、金メダル間違いなしと煽り立てるメディアに乗せられた結果、本来の実力以上の期待を背負うことになる選手が数多くいます。オリンピックに出場することだけでも素晴らしいことだという、そんなムーブメントが起こってほしい気がします。

 以前には比べれば少なくはなりましたが、優勝できなかった銀メダルの選手が、カメラの前で頭を下げるようなこともなくなってほしいと思います。

「感動をありがとう」。この言葉が日本のスポーツシーンの常套句となってかなりの時間が立っています。とても耳障りのいい言葉で、日本国民は、オリンピックに感動を求めるのが当たり前になっています。しかし、選手たちは私たち感動を提供するために、トレーニングを重ねて戦っているわけではありません。感動は受ける私たちの勝手であって、結果論でしかありません。

 時々に「皆さんが感動できるような試合を」というアスリートがいますが、それは「勝ちます」「金メダルをとります」と言えないアスリートに、逃げ道を提供していることになります。

 しかし、現実はもっとシビアで、過去のオリンピックで感動したシーンを問うアンケートで上位に来るのは、ほとんどがメダルに絡むシーンです。一回戦の熱戦をあげる人はまずいないようです。感動と言えばなんとなくイメージは良いですが、感動するか否か、記憶に残るか否かはの基準は、メダルの有無に関係しているようです。

 3番目の「国民への感謝」の欲求は、日々に強くなっている気がします。
試合後のインタビューの最後に、インタビュアーは必ずこう聞きます。
「応援してくれた皆さんに一言お願いします」
そうするとアスリートは
「皆さん、応援ありがとうございました。皆さんの応援のお陰で金メダルを取ることができました」と答えるわけです。そう答えるしかありませんね。
 当たり前のようにどのアスリートの口から聞かれる「皆さんの応援のお陰です」という言葉を、本気で発しているアスリートがどれくらいいるものか、甚だ疑問です。
 半ばメディアに強要されて発せられているかもしれないこの言葉にも関わらず、それを見聞きする視聴者はそうした答えを無意識の内にも期待しているでしょう。それが長年繰り返され当たり前になる中で、国民はオリンピアンに感謝される立場、オリンピアンよりも自分の方が上であるという無意識の心理的が、日本人の中に植え付けられてはいないでしょうか。

 4番目の「人格」は、アスリートは人格者であるべきという、私たちの幻想のようなものに由来しています。それは5番目、6番目に繋がっています。アスリートだけでなく著名人に人格を求めるのは世の常ですが、政治家、経営者、タレント。どんな職業に対しても私生活にも厳しいのが日本の特徴のようです。

 オリンピアンやトップアスリートにも、その知名度に比例して相応しいとされる言動を求められているのは間違いありません。今回の瀬戸選手の問題も直接的にはこの部分に起因しているでしょう。そして、その「相応しい」の基準となるものの1つが、アスリートの場合はスポーツマンシップということになります。
 男女同権が叫ばれる中、”スポーツマンシップ”という言葉自体が過去のものと言って良いくらいですが、日本には「日本スポーツマンシップ協会」という一般社団法人があります。
 この協会が発行している「スポーツマンシップの基礎知識」というハンドブックの冒頭には、次のような記載があります。

スポーツマンシップとは、「他者への尊重」「自ら挑戦する勇気」「諦めず全力を尽くす覚悟」を備え「Good Gameを実現しようとする心構え」のこと。
「スポーツマンシップの基礎知識」一般社団法人 日本スポーツマンシップ協会

 また、英語の辞書でsportsmanshipの意味を調べてみると

the quality of showing fairness, respect, and generosity toward the opposing team or player and for the sport itself when competing
アメリカ英語辞典

筆者訳:競技の時に、相手のチームや選手、そしてスポーツ自体に対して公平性、敬意、寛大さを示す資質

behaviour that is fair, honest, and polite in a game or sports competition
ロングマン現代英英辞典

筆者訳:ゲームやスポーツ競技の中での公正性、正直さ、正しい礼儀を備えた行動

と書かれていました。
 ポイントはいずれも、試合のため、試合の時に限定されていることです。
 しかし、私たち日本人は、試合以外のシーン、特にプライベートにまでスポーツマンシップにのっとったスポーツマンらしい生活や態度、発言を求め、期待しているのではないでしょうか。

 6と7番目は、いわばセットようなものですが、今回の瀬戸選手の件で投稿などをチェックした時に、想像以上のこうした投稿が多いことに驚いたので”ランクイン”させてみました。
 私たちの税金を使って補助金を受けたり、トレーニング環境を整備してもらった恩義に対するお返しを期待しているということになります。
 筆者の考えでは、中国やロシアのような国々とは違って、少なくとも今の日本の体制では、アスリートとその家族が幼い頃から多くを犠牲にして取り組んできた活動の一番最後のひと押しをしているに過ぎません。
 確かに、バドミントンや卓球は、ナショナルトレーニングセンターの利用で国際的にも好成績をあげて、世界トップクラスになっていますが、それを可能にしている主役は、その恵まれた環境に甘んじずに切磋琢磨を続けるアスリート自身と、コーチたちの献身的なサポートです。私たち一般人は、借りを返せとアスリートたちに迫るよりも、彼らを応援して彼らの姿や活躍で感動をもらったところで満足して良いように思います。

 今後もこうした報道は繰り返されるかもしれません。その度にオリンピアンとしての資格を問う声が、沸き起こることでしょう。もう一度、オリンピックとは何か? オリンピックに出場するということはどういうことなのか? 私たちも、アスリートも、競技関係者も含めて皆さんで再考する必要があるかもしれません。

 

 この文章を書いている間に、日本水泳連盟に動きがありました。来週10月11日の週に、倫理委員会が瀬戸選手に聴取の上で、処分を行うようです。本来、対外的には選手側に立ち、守る立場であるべき競技団体が、世論に負けたということになるでしょうか。果たしてどのような処分を行うことになるのか。瀬戸選手の競技生活に長期的に影響を与えるような処分をした場合には、他の選手や現場のコーチからの反発も予想されますし、軽すぎる処分では世論の火に油を注ぐことにもなり、高度なバランス感覚が必要になるでしょう。 

女性問題の瀬戸大也 水連倫理委が来週にも事情聴取 - 水泳 : 日刊スポーツ

 

【10月14日加筆】

 10月12日に、日本水泳連盟による瀬戸大也選手本人への聴取が行われ、13日には「12月の日本選手権を含む日本水連の公式大会、強化合宿、海外遠征を対象とした」年内活動停止の処分が行われました。10月から出場予定だった国際リーグへの参加もできなくなります。一方で、「五輪内定は昨年の世界選手権で金メダルを獲得した選手の権利である」として、五輪の内定は維持されました。

 沸騰した世論を納得させる上でも、この程度の処分自体は致し方が無いと思いますが、筆者としてはその処分の理由に注目しています。

 処分の理由として、やはり「スポーツマンシップ」が拡大解釈され、アスリート個人の私生活に対する倫理に持ち込まれたことは甚だ疑問です。

 さらに、報道によっては「水連や加盟団体の名誉を著しく傷つけたこと」が理由にされているようですが、これが事実であれば、日本水連などの有るか無いかわからない「名誉」のために、アスリートが処分されることが正当性について議論されるべきかと思います。アスリートが社会倫理に反した行動をした場合に、なぜ、それが所属する競技団体の名誉を傷つけることに繋がるのかについて、具体的に根拠を示すべきでしょう。

 本来、所属するアスリートを守るのが競技団体の役割のひとつです。瀬戸大也選手本人が東京オリンピックに向けて、今も高いモチベーションを維持しているのであれば、それに相応しい練習環境を作ることも日本水連の役割の1つだと筆者が考えます。

瀬戸大也選手、20年内は活動停止 日本水連が処分 :日本経済新聞