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今年の箱根駅伝をTV観戦した雑感

劇的な逆転劇は当たり前の結果だったのかもしれない

 正月の恒例行事ともなっている箱根駅伝が今年も行われ、往路では多くの人にとって予想外だった創価大学が1位で箱根芦ノ湖のゴールテープを切り、復路でも、同大学の各ランナーが好タイムで走り続け、最終10区スタートで2位の駒澤大学を3分以上リードし、史上19校目の総合優勝目前でしたが、10区途中で駒澤大学が逆転して優勝しました。

 優勝には手が届きませんでしたが、3位を目指していたという創価大学の想像以上の活躍は賞賛に値するもので、青山学院や東洋大学東海大学などの上位校が固定化してきた近年のこの大会に新風を吹き込みました。専門家や中継TV局でもノーマークだったこの大学の選手たちの好走は、大学スポーツの新た可能性も示唆したと思います。

 筆者は、この二日間、日本テレビの中継や昨年から始まった同局の無料ネット配信で、ほぼ全て見ることができました。外出自粛で家にいたお陰です。私だけでなく、そうした人が多かったようで、今年は視聴率で過去最高の記録したそうです。

 そうしてTVなどの映像を見ていた筆者の印象ですが、創価大学の選手たちが、揃って走る時の姿勢が良く、上半身がバランスよく鍛えられ、上下動が少なく左右のブレの少ない走りに見えました。トレーニング方針とそれに沿ったトレーニングの徹底を感じて見ていましたが、その一方で逆転を許した10区の選手だけがそれに合っていないと走り始めた瞬間に感じていたのです。

 この大会について書かれた記事の中には、創価大学の選手たちの快走の理由として、彼らのナイキの厚底シューズに合った走り方をあげている記事がありましたが、だとすれば、やはり10区の選手は厚底を持て余していることは、素人目に見ても明らかでした。

 レース後の監督のコメントや本人のコメントを見ても、当日特に調子悪かったわけでは、他校のランナーと競うにはまだ力不足で、監督もそれを承知で送り出したようです。

 一人20キロ以上を走るこのレースで、一定以上のレベル、質の選手を10人揃え、ベストコンディションでピークを合わせることの難しさを感じずにはいられません。それがまた、いわゆる強豪校との違いと言えるのでしょう。

 今後、同様の強化方針を貫けば、今年以上の成果を残すことができるのではないでしょうか。選手の素質、資質が多くを締め、大学入学の年齢ではその多くの可能性が決まっているとも言われる陸上競技ではありますが、指導の方法によっては、少なくとも箱根駅伝のレベルでは、資質に関係なく、勝負ができることを証明したと筆者は思います。

 もちろん、往路のスタートから2分21秒差の3位から諦めずに追走を続けた駒澤大学の選手たちも賞賛に値し、その思いが優勝の最大の要因だったことは間違いありません。

もっと注目されるべき区間記録を出したヴィンセントの走り

 創価大学の活躍が注目され、すっかり影が薄くなったのが、花の2区で14人抜き、区間記録を10秒短縮して大会MVPと言える金栗四三賞を獲得した、東京国際大学のヴィンセント選手です。

 1年生で出場した昨年も3区で区間記録を出していて、今年も好記録が期待されての出場で、各大学がエース級を揃える2区での記録的な走りはその期待に十分応えたものとも言えます。

 14位でタスキを受け取ったヴィンセント選手は、直後から周囲とは全く違うスピードで走り続け、45秒の差を物ともせず瞬く間にトップに立ちました。まさに異次元の走りでした。

 その彼の好走に水を差したのが、TV中継で解説をしていた、日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダーの瀬古利彦氏と昨年この2区で新記録で走り東京五輪で1万mの日本代表に選ばれている相沢亮氏の二人です。

 二人は、2区前半のヴィンセント選手の快調な走りが、この区の終盤に待ち受ける二つの急坂で続くことに否定的なコメントを繰り返し、大学時代2年連続でこの区間区間記録で走った瀬古氏に至っては「2区をなめてはいけない」とまで言い放ったのです。

 昨年自らが出した記録を塗り替えられるかもしれない相沢氏の、ライバル視丸出しのコメントは許容の範囲ですが、日本陸上競技連盟で長距離プロジェクトのトップに立つ瀬古氏のこうしたコメントはあまりにいただけません。日本人ランナーと海外出身のランナーでは、この年齢でもこれだけ大きな差があるということが理解できていないのです。しかも、ここを走る日本人選手のほとんどこの年齢のトップレベルですが、ヴィンセント選手が母国でトップレベルとは限りません。こうした現実を瀬古氏は理解していないことになり、プロジェクトのトップがこれでは、日本の長距離界の浮上は見込めないでしょう。

 実際のヴィンセント選手は、最初の坂で少しペースが乱れたものの、その後はペースを取り戻して新記録達成を果たしています。

 相沢氏がヴィンセント選手が時計を気にしていることをコメントしていましたが、彼の様子を見る限り、ペースダウンを心配したというよりは、オーバーペースにならないように、記録に合わせて走ることを目指すためだったとように見えました。

 TVの映像に映し出されたゴール直後の彼の様子は、疲労感などは一切見せず、およそ20kmを全力を走ってきた直後のランナーには見えないほど、淡々とコートを着てその場を去る後ろ姿でした。

見直すべき大会のあり方・・・沿道ののぼり

 今回の大会は、新型コロナウイルス感染予防のために、沿道での観戦、応援の自粛が呼びかけられました。しかし現実には、中継所周辺や名所を呼ばれているところでは、多くの人が沿道で応援しているように見えましたが、例年に比べればかなり少なかったようです。

 そして、その沿道の風景で例年と最も異なっていたのが、これまで沿道を埋め尽くしていた各大学ののぼり旗や主催者の一つである読売新聞の手旗が見られなかったことでしょう。これも新型コロナウイルス感染拡大防止の一環として制限がかけられたのだろうと思われますが、筆者はとても良かったと思います。

 読売新聞の手旗はともかく、沿道を埋め尽くす各大学ののぼりは、この大会の商業主義の象徴のように思えていました。そののぼりを持つために部活や大学関係で動員されている人たちで歩道がいっぱいになり、他の歩行者がが通れないような場所も見受けられます。TV中継に映りやすい場所を確保するために、大学同士で小競り合いが発生することもある聞いています。

 この大会が行われてる道路は公道、公のものです。その公道を使った事実上の宣伝行為は、もっと抑制、または規制されるべきだと筆者は考えます。往路復路のスタート・ゴール地点、中継所など場所を限定されるべきでしょう。

 今回、新型コロナ対策で事実上の禁止された今年をきっかけに、数や場所に制限をかけるべきだと思いますし、その絶好の機会となるはずです。

見直すべき大会のあり方・・・監督車

 もう一つ、筆者が変えて欲しいと思っているのが、各大学の監督を乗せてはしる大会運営車、いわゆる監督車の存在です。

 大会中、各大学の監督を助手席に乗せて、コース上の多くの場所で選手の後ろや横を走る車です。監督はその車から拡声器を使って自分の大学の選手に声をかけます。

 筆者は、この存在が日本の長距離を弱くしている要因だと思っています。

 日本では大人気の「駅伝」は日本発祥のスポーツで、日本のローカルスポーツだと言って良いでしょう。日本の陸上競技の関係者は、かつてはオリンピックでの採用を目指し、国際化を狙って国内で、国際千葉駅伝や、横浜国際千葉駅伝などの国際大会も開催してきましたが、日本の経済力の低下と比例して、そうした大会は姿を消し、国際化は諦めずにはいられない状況になって、再び日本のガラパゴススポーツに陥っています。

 元々のマラソンやランニングが好きな国民性に加えて、駅伝の人気によって多くの長距離走者が生まれているのは事実です。そして、箱根駅伝が多くの10代のランナーの目標になってきたのです。その一方で、箱根駅伝で走ることを目指して厳しい練習に取り組んだ彼らは、その目標が叶うか否かに関わらず、大学卒業を期に、そのほとんどが競技ランナーとしてのキャリアに別れを告げるのです。今回の大会で好成績をあげた創価大学の選手の多くも、卒業後は新しい道を選んでいます。

 長距離走個人競技であるのに対して、タスキを繋ぐ駅伝は紛れもなくチーム競技です。その一体感が、個人競技では見られない限界を超えた走りを生み、そうした姿がこのスポーツの人気の源になっているのでしょう。

 しかし、長距離競技は本来孤独なスポーツで、競技中は原則一人で戦わなければなりません。タスキを繋ぐことによってチームスポーツとなっている選手たちのメンタリティは、やはり本来の長距離走者のメンタリティとは別のものになっているはずです。チームスポーツとしての駅伝に魅力を感じている選手ならば尚のことでしょう。

 そして、長距離走者本来の孤独からランナーたちを遠ざけているもう一つの存在が、箱根駅伝独特の監督車の存在です。そのお陰で孤独であるべきランナーたちは、常に監督から見守られて、時に大声で指導を受けることができるのです。指導と書きましたが、実際には、技術的な指導であることは滅多になく、そのほとんどはメンタルに訴える叱咤激励です。そうして、彼らは最後の力を振り絞ってタスキを繋ぐことができるのです。

 スポーツの視点で見た時、監督車は必要がないと思います。本来ランナーたちは、個人の力で20キロを走り抜くべきで、アドバイスも受けず孤独であることが当然です。まだ経験がない、浅いと言ってもそれがその時の実力です。それは、彼らが長距離走者としての将来に向けても大切なことなはずです。逆に監督という保護者に見守られながら走ることが、精神的な甘えにも繋がっているのではないでしょうか。

 選手のコンディションの急変に対応するために必要だと言う声もあります。しかし、これまで何度となく選手がリタイヤするシーンを、私たちは見てきたわけですが、彼らが走ることができなくなる前、レースをリタイヤさせた監督が一人でもいたでしょうか? むしろ、叱咤激励し、限界まで走らせるのが彼らです。限界まで走らせることで、例えば肉離れのような筋肉の損傷は長期化し、脱水症状は場合にはよって二度と競技ができないほどダメージを与えることさえあります。しかし、監督たちはそうしたリスクよりも目の前の勝利にこだわり、タスキを繋ぐことを選手たちに要求するのです。

 但し、こうした姿もまた、日本流のスポーツの美学であり、箱根駅伝が人気を博す理由のひとつなのでしょう。

 しかし、選手のコンディションを考えるのであれば、医療関係者が追走する方がよほど、選手たちのためになります。

 往路の山下り第6区のスタートから数キロは、監督車が付きません。映像的に見てもこの間の映像が見通しがよく、美しいことか。本来、こうあるべきだと筆者は考えます。