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日本代表の記録的大勝に見る日本のスポーツの文化性

日本のサッカーの成長がハードスケジュールを可能にした

 来年のカタールワールドカップに向けた、日本代表のアジア二次予選の戦いが6月15日のキルギス戦で終わりました。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、イレギュラーな日程や方式での開催となりましたが、日本代表は予想通り全勝で最終予選に駒を進めました。

 5対1で勝利したキルギス戦では、全勝を期待されていたのにも関わらず、11日の開催された親善試合のセルビア戦から、先発メンバーを全員入れ替えて臨んでいます。5月28日から16日まで期間で、ワールドカップ予選3試合を含めて5試合をこなすという代表チームとしてはハードなスケジュールは、こうした選手層の厚さゆえに可能になったことでしょう。

アジア予選を控え組でも戦える日本代表

 セルビア戦とキルギス戦との比較では、親善試合のセルビア戦が海外組中心のベストメンバーに近く、公式戦のキルギス戦がJリーグ組中心の控えメンバーだったと断定して良いでしょう。

 以前の日本の実力ではあれば、アジア予選を控えメンバーで戦うことなど到底考えられませんでしたから、その成長には驚きです。

 一方で、以前であれば、ベストメンバー、ベストコンディションで対戦しなければ相手に失礼だという声が聞こえてきたと思いますが、最近は合理的な考え方ができる人が多くなったようです。

 Jリーグに、全試合でベストメンバーを求める罰則付きの規定があった川淵三郎チェアマン時代から、日本のサッカーの考え方もかなり進歩したようです。

なんのために大量得点が必要だったのか?

 今回の二次予選での日本代表は、ある意味組み合わせにも恵まれていたかもしれません。欧州リーグで数多くの選手がプレーし、アジアトップクラスとなった日本を脅かすようなチームはいませんでした。

 その結果が、8試合で得失点差プラス44という数字に表れています。

 3月に千葉で行われたモンゴル戦では0対14、5月のミャンマー戦でも10対0とサッカーらしからぬスコアで大勝した結果です。

 こうしたあとにはメディアの見出しには「記録的大勝」など絶賛する文字が踊り、本文にも嬉々とした内容が続きました。

 しかし、ここで一つの疑問があります。

 サッカーでこうした大勝は本当にそんなに素晴らしいことなのでしょう? 明らかに実力差のあるチームを、完膚なきまでに叩きのめすようなことが必要だったのでしょうか?

かつての日本もアジアの弱小国のひとつだった

 日本代表がワールドカップに出場したのは1998年フランス大会が最初です。それまでは、現在では当たり前のようになったオリンピック出場にも悪戦苦闘していましたが、資金的に余裕がある日本には、ヨーロッパを中心に多くの強豪クラブチームや代表チームが招待され、多くのビッグネームが来日しました。

 多くの場合は日本代表やそれに準ずる選抜チームと対戦しましたが、実際にピッチに立ってみると、名前ばかりでなく、その力は歴然としていて、日本代表の選手たちは手も足も出ないというのが正直な印象でした。個人のレベルでは、おそらく、唯一の例外が1978年からドイツに渡った奥寺康彦氏ということになるでしょう。

 当時、不思議に思っていたことがあります。こうした試合では、どんなに実力に差があるように見えても、4点差以上にはならないのです。しかも、4対0で勝っている試合で日本が1点を返すと、相手は1点を取って5対1になってそのまま試合が終わる。そんな試合もあったと記憶しています。

実力差通りに点差が開かない理由は

 その疑問を、Jリーグの草創期に日本でプレーしていたピエール・リトバルスキー氏に聞いたことがあります。リトバルスキー氏は、1980年代ドイツ代表の中心選手として3大会連続でワールドカップに出場し、優勝1回、準優勝2回という輝かしい成績を母国にもたらした世界のスーパースターの一人です。おそらく、彼もドイツ代表や所属していたチームの一員としてサッカー弱小国にゲストとして招かれていたはずです。

 彼によると、4点という具体的な数字は聞いたことはないが、公式戦でも親善試合でも、遠征先では勝敗が見えた段階で、攻撃の手を緩めると話をしてくれました。

 勝敗が見えるというのは?と聞くと、前半が終わって2-0か3-0で勝っていたらと言ってました。

 同じ頃に来日していたヨーロッパの記者からは、ヨーロッパのリーグでは前半が終わって上位のチームが2-0以上で勝っていたら、それで勝負は決まりだという話を聞いたことがあります。勝っている方も負けている方もそれ以上、無理に点を取りにいかない。それがサッカーというスポーツだというのです。特に勝っている方がホームの場合は、その傾向が強いそうです。

 勝っている方はともかく、負けている方は、2点差であればまだまだ逆転を狙ってプレーするというのが私たちの常識ですから、驚きの話でした。

 もちろん、得点王に絡む選手がいたり、僅差で降格争いをしている場合などの例外はあるようです。但し、あの頃は、得失点差は順位の要件に入っていなかったように思いますが。

トップスポーツだからこそ相手の思いを大切な姿勢を

 サッカーに限らず日本では、スポーツの試合では、勝っていても負けていても最後まで全力でプレーすることが礼儀であり、スポーツマンシップにそうした行為を加える人もいます。

 一方、海外ではサッカーの限らず、必要以上に大差での勝利をよく思わない傾向があるのかもしれません。アメリカのメジャーリーグでも、大差の試合では勝っている方が盗塁をしない、3ボールから打ってはならない等のいわゆる「アンリトンルール」があるそうです。

 また、日本では当たり前の最後まで全力という姿勢にも、必ずしも高い評価を与えません。その典型と言えるのが、イチローがボテボテの内野ゴロを全力疾走でヒットにしたことが、アメリカでは決して高く評価されなかったことでしょう。日本では最後まで諦めない姿勢とその俊足に、無条件に喝采を送られるシーンですが、野球の母国アメリカでは異なります。日本人から見れば手抜きと言えると思いますが、ピッチャーとバッターのゲームは打ち損じた時点で終わっているというのが、多くのアメリカ人の考え方です。

 こうした考え方の違いは、スポーツの文化的な違いに起因するのかもしれません。

 ヨーロッパやアメリカのスポーツは、sportの言葉の通り、娯楽に発祥があり、今もゲームのひとつなのでしょう。その考え方の中では、対戦相手も同じゲームをする仲間なのです。

 一方、日本のスポーツの場合は、剣術などを発祥として武道がベースにあり、生死をかけることも大げさではありません。一瞬でも気を抜ぬくことを許さない、武道の精神が今も受けづがれているからです。

 さらに明治政府から始まった「体育教育」の影響も大きいはずです。

 

 昨今、育成年代を中心に指導者のパワハラ的な言動が問題になっていますが、こうしたことも、そもそもはスポーツにおける指導者と選手(学生)の関係に、武道や体育教育の精神が受け継がれていることが大きな要因です。怪我の多発する小中学校の組体操が無くならないのは、組体操による精神的な修養を求める父母の要望の影響が強いと聞きます。

 今回のアジア二次予選のように14−0で試合に勝つことが、手放しで喜ぶことができる結果だったのか? スポーツを文化として考えた時、日本代表のようなトップチームこそが、負けた側の存在、その思いにもっと思いやることができるようになることで、文化的な成熟と進歩が可能になるのではないでしょうか。