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東京オリンピック雑感 〜パラリンピックの価値〜

東京パラリンピックに至る道

 9月5日夜、東京国立競技場では、パラリンピックの閉会式が行われて、2006年の2016年オリンピック招致から始まった15年にわたる壮大なプロジェクトが一応の終了を見ました。

 2016年大会招致の失敗では、関係者の中でその要因のひとつとしてパラリンピック軽視が指摘されていて、その反省をもとに2020年大会の招致の際には、立候補ファイルにもパラリンピック開催の意義や概要が明記され、立候補の際にはIOCと同時にIPCにもこのファイルが届けられたそうです。

 こうして東京大会のオリンピックとパラリンピックを平行して開催するプロジェクトはスタートしました。のちに、組織委員会IOCにオリンピックとパラリンピックの開会式の合同開催を提案したり、日本のオリンピックチームとパラリンピックチームが同じユニホームを着ていたことは、この延長線上にあると考えて良いと思います。

 パラリンピックが、オリンピックと同じ年の同じ都市で初めて開催されたは1960年のローマ大会です。パラリンピックの名前が初めて正式採用された1988年のソウル大会からは事実上、同年の同じ都市の開催が慣例化しましたが、現在のようにオリンピック招致=パラリンピック招致になったのは、2001年にIOCとIPCの間の合意を元に初めて開催された2008年北京大会からになります。この大会から二つの世界大会が同じ組織委員会のもとで、同じ予算の中で開催することが義務付けられたのです。

 第二次世界大戦傷痍軍人リハビリテーションの一環としては始まった前身の大会が1948年に初開催されて以来、ロンドンに戻った2012年大会は、過去例を見ないほどに成功したパラリンピックとして高く評価されました。パラリンピックのTV中継に初めてTV局から放映権料が支払われたのもこの大会でした。

 伝統的に障害者スポーツが盛んだったブラジルで開催された前回リオ大会も好評に終わったと伝えられています。そして、日本では、4年後に開催される東京大会に向けて組織委員会や東京都などのプロモーションや、それに連動したメディアによる様々な周知が進み、パラリンピックという大会の存在やその名称が一般的になったのが、この大会だったのではないでしょう。

 そして迎えた東京大会はどんな大会だったのでしょう。

東京パラリンピックの評価

 東京大会は、オリンピックと同様に新型コロナウイルス感染拡大のために1年延期、さらに無観客という史上初の状況で行われました。日本国内の感染状況は、7月23日に始まったオリンピック開催時に比べて、8月24日のパラリンピックの開幕時には明らかに逼迫していて、開催期間中の8月27日には、緊急事態宣言の対象となる都道府県がそれまで13から21に拡大されています。

 そのような状況にも関わらず、オリンピック同様に開催の可否に関する議論が全くと言って行われず、なし崩し的に開催されたことは事実です。それでも開催についてオリンピックほど激しい批判が起こらなかった理由には、オリンピックに比べて規模が小さいことが挙げれます。そして、何よりも露出が少なかったことが原因でしょう。

 競技の中継はNHKの2つの地上波とBS、CSとネット配信のみ。民放で見るのは、パラリンピックの映像を見ることができるのは、スポンサー企業のCMだけだったと言って良いでしょう。

 オリンピックとパラリンピックの放送枠が決まる以前、民放各社は大会の放送枠に権限を持つ広告代理店から、視聴率の見込めないパラリンピックの放送を押し付けられないかヒヤヒヤしていました。しかし、蓋を開けてみれば、中継放送はNHKのみ。民放はニュースでもほとんど扱わず、日本が金メダルを期待されている競技が行われている時間帯に、オリンピックの金メダリストたちを並べたバラエティーを放送するなど、ほぼ無視と言って良い状況でした。

 それどころか、日本サッカー協会パラリンピックの期間中、競技が行われている時間帯に、ワールドカップ予選を国内で行なっています。しかも、日本サッカー協会がグラスルーツプログラムとして支援してるはずのブラインドサッカー(5人制サッカー)は、日本代表が準決勝に進んでいれば、このワールドカップ予選と同じ時間帯に試合を行なっていた可能性すらあったのです。メディアだけでなく、日本のスポーツ界がパラリンピックをいかに軽視しているかわかる出来事です。

  むしろ事前の期間の方が、民放のパラリンピックやパラリンピアンを取り扱った番組は多かったかもしれません。この辺りは、広告代理店の意図、指示によるものだったことが伺い知れます。

 2016年のリオ大会の直後、組織委員会や東京都、放送関係者からは、パラリンピックの放送が多く、2020年大会に向けて肯定的なコメントが多かったですが、パラリンピアンや障害者スポーツ関係者からは、期待したレベルには程遠く、落胆するほどだったという答えを聞きました。筆者も彼らと同様に考えです。きっと、今回も本音では同様のコメントが聞けたはずですが、皆さんの口は重いようです。

 結局、国民的な盛り上がりには程遠い、ひとつの国際スポーツ大会の扱いだったようです。

オリパラ教育と多様性理解〜多様性の理解につながったのか

 今回の東京大会では、オリンピック、パラリンピックを通して「ダイバーシティ&インクルージング」=多様性の理解が大きなコンセプトの一つとなっていました。

 小池百合子都知事熊谷俊人千葉県知事は、この観点から、当初から予定されいた子供達のパラリンピックの観戦=「学校連携観戦」にこだわり、最終的には両都県を中心に約15000人の幼稚園児、小学生、中学生、高校生が試合を観戦したそうです。当初、約81万人が希望していたそうなので、それに比べればはるかに少なくなりました。感染拡大の収束が見えない中で、自治体単位、学校単位、さらには父兄から取り消しの希望が続いた結果です。逆に参加した学校は、よく現場の教職員がこれに対応し、親たちも送り出したことに驚くばかりです。

 小池都知事は、この「学校連携観戦」の教育的な価値を強調していましたが、子供たちが観戦した分のチケットは自治体が買い上げるので、少なくとも東京都については少しでも売り上げを確保することも目的だったように思います。当初98万枚のチケットが用意されていので、その数はチケットの総数の1割を超えていたことになります。

 実際に競技会場で試合を見せることが、どれほどの教育的な価値、一生に残る体験を子供達にさせることができるかはわかりせん。無観客の閑散としたスタジアムで、遠くから眺める競技にそれほどのインパクトが思えません。テレビを通してでは見ることができないサポートスタッフなどの動きに目がいく子どもは限られています。

 東京都や競技が行われる自治体、事前キャンプ地では、小中学校の授業の一環としてオリンピックやパラリンピックについて学ぶ授業の方が行われていました。中でも実際に障害者アスリートが学校を訪れ、子供達と競技を体験するプログラムは、障害の理解や競技の理解に効果があったはずです。

 東京都は、競技施設などハードの建設の予算を除く、すべてのオリンピック、パラリンピック関連の予算の中で、パラリンピック普及に最大の予算を組んでいて、その一環として都内では学校単位ではすべての小中学校で障害者アスリートが、学校訪問プログラムを行なったはずです。またその他の自治体でも、公式スポンサーが企画したプログラムを含めて、多くの学校で障害者アスリートの来校を受けたはずです。

 こうしたプログラムで子供達が実際に接することができた障害者アスリートが、実際に競技する姿を観戦することができれば、応援にも熱が入ったとは思いますが、1年の延期が子供達の記憶を遠ざけてしまったかもしれません。

 いずれにしても、多様性の理解という点では、きっかけにはなっても、解決や定着には程遠いと思います。

 その大きな理由は、パラリンピックは日常ではないからです。

映像で見るパラリンピックの価値の変化

 2012年ロンドン大会の成功の要因のひとつに、地元のチャンネル4というケーブルテレビでの放送があります。先にも書いたように、パラリンピック史上初めて放送権料を支払って多くの競技を独占放送しました。

 並行して注目されたのはパラアスリートたちをSUPER HUMANと呼んだCMの存在でした。2016年大会の際にはそれをさらに「meet the supernumans」と題してバージョンアップさせて、障害のあるアスリートたちが、同じく障害のあるミュージシャンたちの「yes I can」というアップテンポの演奏に乗って、様々なチャレンジをする様子を見せてくれます。日本でもパラリンピックの普及にために様々な場面で紹介されていましたから、ご覧になった方もいると思います。

 

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 パラスポーツの魅力、可能性を表現するとともに「Yes,I can」の言葉の通り、障害のある人たちに向けてチャレンジを促すメッセージとなっています。そのパラスポーツに対する無限の可能性を示すストーリー性とポップでウイットに富んだ感覚は、およそ日本では考えられない映像表現でした。リオ大会以降の4年間、多くの日本のクリエーターたちが、このCMを越えようと努力したと思います。

 しかし、そのchannel4のCMは5年後の東京大会では様変わりします。タイトルはSuper.Human。タイトルだけ見ると同じ路線のように見えますが、実は2016年までのCMとは全く違うことを表現しています。

 スポットライトは浴びる女性アスリートは自分のベッドで目覚まし時計で起きて日常に戻ります。そこから細かいカット割りで障害者アスリートの日々の葛藤と努力を面白おかしく表現します。リオ大会時のCMでは車椅子を空に飛ばしましたが、この作品では自転車からの落車したアスリートが勢い余ったアスリートが宙を飛びます。わずか数センチの段差でお店に入れないシーンも出てきます。最後は・・・こちらはあまり日本では注目されなかったので、ご覧になっている方は少ないでしょう。ご自身でご覧になってみてください。前回までのCMのメッセージを完全否定していることが最後のカットでわかります。

 

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 2012年ロンドン大会当時、やはり注目を集めてギネスビールのCMがあります。

 会社帰りでしょうか。思い思いのスポーティな服装で車椅子バスケットボール に興じる男たちが、バスケが終わると一斉に車椅子から立ち上がって自分の足でドアに向かって歩き始めます。カットが変わってバーでのシーン。ひとりの車椅子の男を囲んで男たちがビールを飲んでいます。

 Guinness basketball commercial - 日本語説明入り - YouTube

※こちらの映像はchannel4のオフィシャルチャンネルから落ちているので扱いには注意が必要かもしれません。

 日本では、障害者への「同情」だとか「車椅子バスケの普及」などその目的について様々なコメントが付けられていますが、筆者の解釈は「日常」です。channel4がSuperHumanたちの非日常の舞台にしてしまったパラスポーツを、このCMでは、自ら日常に落とし込み、障害と障害があってスポーツに取り組むことへの理解を映像で求めています。

 channel4も、ロンドン大会から9年、リオ大会を経て、パラリンピックの意義を日常に落とし込んできたのです。

 日本ではどうだったでしょう。国内で流された公式スポンサー各社のCMでは競技やアスリートの姿をかっこよく、美しいシーンを繋ぎ合わせ、紹介する番組でもひたすら競技やアスリートのすごさを強調していました。筆者が知る限りでは、唯一東京ガスに日常を描いたCMがあったと思います。

 アメリカでは、トヨタと全米オリンピック委員会と全米パラリンピック委員会が制作し、2月のスーパーボールの際に放送されたUpStreamと題した1分間のCMが注目を集めたようです。パラリンピック競泳の女王、ジェシカ・ラング選手の半生を見事な演出で感動的にまとめています。可能性と挑戦という意味では強いメッセージを発信したでしょう。それが、将来にわたって障害者スポーツへの理解や共感に繋がったかは、別の問題です。

 

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多様性の理解は違いを知ることで始まる

 多様性を理解が目的に一つであれば、違いを知って理解してもらわなければ、多様性を理解に繋がりません。それは即ち、障害者の場合、できないことを知ってもらって、理解をしてもらうことなはずです。

 パラリンピアンは、同じ障害を持つ人たちのアイコン的存在でもあります。それは同じ障害がある人たちに、自分でもできるかもしれないというメッセージを送る役割であると同時に、一般の人たちに向けては、競技の普及以上に、障害そのものについての理解を広げ、深めることにも大きな役割を負っているはずなのです。

 こうしたことについて、世界的なパラ競泳のレジェンド成田真由美さんをはじめ、ベテランのパラアスリートの皆さんの多くは、講演会などで、競技の説明などよりも障害の理解を深めるためのお話を中心にされています。

 また、ボッチャのような障害の重い競技の選手の方も同様です。競技団体が競技の普及に猛進する中で、自分で体温も調節することができない自分たちの現状をもっと周囲に知ってほしいと話してくれました。2018年インドネシアで行われたアジアパラリンピックでは、短時間ですが高温の部屋に留め置かれて、命の危険さえ感じたとそうです。

 一方、年齢的に若く四肢の一部欠損など、比較的障害の軽いアスリートの中には、競技を高めることに専念して、障害を理由に第三者にサポートしてもらうことに否定的なアスリートも少なからずいます。実際に講演の中で、街で車椅子の人が困っているのに出会ったらどうしたらいいかという質問に、自分の場合は何もしてほしくないと答えたパラアスリートを知っています。

 まず、障害者であるパラアスリートが違いを伝えようとしなければ、障害の共有、理解に繋がりません。

 今回のパラリンピックで、日本では、開会式、閉会式を除けば、競技の魅力、競技性の高さばかりがPRされた印象ですが、目標に掲げられた多様性の理解とは、実は相矛盾しているのが現実です。競技性を高めて、パラアスリートへの賞賛、尊敬を集めた上で、相矛盾した障害への理解、共有を進めることが課題として残されているのです。

格差が広がるパラアスリートと一般の障害者

 パラリンピックが抱える大きな問題として、格差の拡大があります。そのひとつが、国ごとの格差の広がりです。メダルの獲得の数は2008年大会をきっかけに近年台頭した中国を中心に一部の国々で寡占状態にあります。その理由は、パラリンピアンの育成にはお金がかかることが挙げられます。

 競技用の車椅子や競技用の義手、義足は極めて高額ですし、サポートのためのマンパワーオリンピアン以上に必要です。オリンピックのようにマーケティング価値が高ければ良いのですが、今大会のメディアの露出を見ればわかるように、その価値が高いとは言えません。

 その結果、中国やロシアのように国家的なプロジェクトと取り組んでいる国か、アメリカや欧州のように裕福な国にメダルが独占される結果になるのです。伝統的に障害者スポーツに理解のあるブラジルは例外的な存在です。

 日本も世界的に見れば、裕福な国ではありますが、障害者や障害者スポーツに投じられいる資金は限定的で、一部の競技やアスリートに限られていると言っていいと思います。

 こうした国別の格差以上に問題視され始めているのが、同じ国内でもパラリンピックに出場できるような一部のエリートアスリートと、同じ障害がある一般的なアスリートや、同じ障害を持ちながらスポーツをするなどの環境にたどり着けない人たちとの格差の存在で、トップの競技性が高まるにつれてその格差も広がっていると考えられています。

 障害者のスポーツは、健常者に比べてスタートラインに立つまでにも、多くの費用がかかり、多くの人たちによるサポートが必要となります。例えば、陸上競技のトラック競技では、健常者であれば誰でもスタートラインに立つことができますが、障害者スポーツの場合は、競技用の義足や車椅子が必要となります。また視覚障害者の場合の多くはガイドランナーの協力が必要です。

 最も高額なのは、夏の競技で車椅子バスケットボールや車椅子ラグビーの車椅子かもしれません。車椅子ラグビーの車椅子は最低でも100万円を超えるそうです。

 もちろん、競技レベルがあがるほど、そうした用具は高価になります。

 実は、それほど特殊性がないように見えるボッチャの車椅子も、パラリンピアンのレベルになれば、投げるのに相応しいカスタマイズがしてありますし、実は日本代表のユニホームは体の動きがスムーズになるように特殊な素材とカッティングがなされているそうです。

 一方で、競技をすること自体には、特別な道具や専門的なサポートが必要がない競技もありますので、そのあたりの見極めが今後は重要になってくる可能性もあります。

 しかし、パラリンピックの競泳競技では四肢の欠損など、極めて重度な障害者も競技に参加してます。もし同様な障害がある人たちが競泳を始めたいと言ったら、想像ができないほどの様々なハードルがあるはずです。それをクリアするためには一定以上の経済環境が必要だと想像されます。その中にはサポートしてくれる人たちとの出会いも含まれます。

 更に言えば、障害があることによって、家に引きこもりがちの人たちが、サポートを得るにも経済格差があると考えられます。

 もしかすると、パラリンピックで金メダルを取るために使われる費用を、スポーツをする機会に巡り合えていない障害者に均等に提供した方が、社会的な価値は高いかもしれません。

 だからこそ、パラリンピックに出場する選手や指導者、競技団体など関係者は、ただ単に金メダルを目指すだけでなく、自らの活動が社会的な価値を持つように心がけ、努力するべきなのです。

東京パラリンピックが残したもの 

 今回の東京大会では、「レガシー」の創生がコンセプトの一つとなっていました。パラリンピックによって何を後の時代に残すことができたでしょうか?

 1964年大会では、日本の競技者達が病院などの施設から直接競技場に来場し、競技が終わるとまた病院に帰って行ったのに対して、海外のアスリート達は、期間中、選手村で自立して生活し、競技が終われば、街に出て買い物をしたり、食事やお酒を楽しんだりして、その置かれている立場や環境の違いの大きさに、アスリート自身や関係者が衝撃を受けたことが伝わっています。

 その後の障害者スポーツのあり方に変化を与えたと伝えられていますが、実際に障害者スポーツが旧来のリハビリテーションの一環から、スポーツとして自立するのは、40年経った2011年の法律の改正を待たなくてはなりませんでした。

 1961年に制定された「スポーツ振興法」が全面改訂され、この年に現在の「スポーツ基本法」が施行されて、「スポーツは、障害者が自主的かつ積極的にスポーツを行うことができるよう、障害の種類及び程度に応じ必要な配慮をしつつ推進されなければならない。」と障害者のためにスポーツを定めたのです。

 これにより、障害者スポーツはそれまでの厚生労働省の管轄から文部科学省の管轄となり、オリンピック競技同様のスポーツとして認められることになりました。

 新法は、2020年大会招致を円滑に行うために、オリンピックやパラリンピックのような大型国際スポーツ大会の招致に国が積極的に関わったり、トップレベルの選手の強化に予算を投じられることを目的に、法改正したものですが、これによって障害者スポーツが行政的にもスポーツとして認められたことは、広く言えば、東京大会が残したレガシーと言えるのかもしれません。

 東京都は、オリンピック、パラリンピック教育とは別に、巨費を投じてパラリンピックパラリンピック競技の普及啓蒙を図りました。先に書いた小中学校での障害者アスリートの授業のほか、東京駅前や上野公園などを使った定期的な大型イベント、有名漫画家とコラボした渋谷の街をジャックしたキャンペーンや動画配信。また、公式スポンサーや自治体が行う障害者スポーツのイベントの一部には補助金も出していたようです。

 これ以外にも東京を中心に、数多くの障害者スポーツの体験イベントや講演会が行われました。

 果たしてこうしたものは、パラリンピック本番にどのような影響を与え、何を残したのでしょうか。

 その判断はひとつは無観客開催によって失われました。オリンピックはすべての競技で満員が予想されていましたが、パラリンピックはそうではありません。

 今大会で用意されたチケット約770万枚に対して、過去最高のロンドン大会は約330万人(枚)。この差を埋めて完売、満席にすることが、大会の成功を目指す、大会組織委員会や東京都には必要とされていました。81万人が希望したという幼稚園、小中学校児童、高校生が観戦する「学校連携観戦」も、実は客席を埋めることが目的であったことは経過を追っていくことで分かります。

 ですから、東京都が行なった大規模なキャンペーンやイベントも本来の目的は障害者スポーツを通した「多様性の理解」ではなく、パラリンピック本番のチケットを売るためのPRキャンペーンだったのです。それでも、パラリンピックという大会と競技の認知には役に立ったはずです。

 イベントの会場では、客寄せで呼ばれたタレントの周囲以外では、高齢の方の参加が目につきました。アスリートのみの講演会の参加者は高齢者と関係者のみと言っていいでしょう。渋谷ジャックや漫画家とのコラボは若年層をターゲットにしたものでした。そして、東京都や会場となった自治体、キャンプ地が予定されていた自治体では小学生から高校生までは、学校でオリパラ教育が行われました。

 この結果、30代後半から50代のいわゆる現役世代へのアプローチが完全に抜け落ちました。

 小学校でボッチャの体験をした子供が、家に帰ってボッチャの話をしようにも、両親は全くボッチャを知らなかったということが、東京中の家庭で起こっていたのです。

 もちろん、若年層をターゲットにした東京都のキャンペーンが実際にこの世代にどこまで届いたのかもわかりません。

 そして、無観客で行われ、テレビでのライブ放送も限定的だった本大会。レガシーとして果たして何を残すことができたでしょうか。

アフターパラリンピックがレガシーを作る

 重要なのは今後の対応です。特に障害者アスリートと接点を持つことが出来た小学生達には可能性があるかもしれません。それでも、学校や教員が継続的にプログラムを提供し、メッセージを送り続けることが必要でしょう。そのために、来校した障害者アスリートや競技団体とコンタクトを取り続ける必要があるでしょう。

 しかし、そのアスリート本人達や競技団体はまもなくバブルの終焉を迎え、パラリンピック以前の状況に戻る必要があります。もちろん、今後も支援を続けるスポンサーをあるとは思いますが、その多くは東京で行われるパラリンピックがターゲットだったはずです。さらにNHKのみの中継、一部の競技種目ではそのNHKですら映像が流されなかったことで、スポンサーとなった企業は、改めてパラリンピックマーケティングの価値を再認識したはずです。

 また自治体の対応にも変化があるはずです。例えば、パラリンピックまでは簡単に優先使用ができた公共施設も、今後は簡単に予約できなくなる可能性があるはずです。 

 パラリンピックに向けて大幅に間口を広げた一部の競技団体は、辛い日々が始まるかもしれません。職=定期収入を失うアスリートもいるかもしれません。しかし、このことはオリンピック競技でもマイナー競技では、十分に起こり得ることで、どちらも歯を食いしばって乗り越えていくしかないのでしょう。

 ただ、その厳しい状況の中で、先にあげたような学校との連携やこれまで行なってきた普及活動を続けていけるかが、今後の大きな課題です。一般でも行われている競技やこのパラリンピックまでに十分に定着した一部の競技を除き、継続した普及活動が競技の存続と深く関わっているからです。

 障害者スポーツの競技団体の中には、バブルの中でも、パラリンピック以降を見越して、頑なにまで組織を拡大をせず踏ん張ってきた競技団体もあります。そうした時流に流されず強い信念を貫いている競技団体が中心になって、障害者スポーツの普及活動を続け、その意義を伝え続けていくしかありません。

 今までのように向こうから来てくれませんから、アスリート自身や競技団体が自ら動き発信していくしかないのです。

 東京でパラリンピックが開催された意義をレガシーにするためのボールは、間違いなくアスリートの側にあります。

 

 長文を最後までお読み頂きありがとうございました。先行して下記のようなブログをアップしています。ご一読頂ければ幸いです。

 

東京オリンピック雑感 〜競技編〜

東京オリンピック雑感 〜メディア編〜

東京オリンピック雑感 〜新型コロナと感染対策〜