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北京パラリンピック雑感4〜パラスポーツにこそ多様な目的意識を〜

改めてパラリンピックとはどんな大会なのか?

 北京パラリンピックが始まるしばらく前、毎日新聞のサイトに次のような記事がアップされました。 

北京2022:「知的障害者もパラへ」 除外から20年超 「共生」願う選手 | 毎日新聞   

 毎日新聞の紙面にも掲載された記事のようですが、ようするにパラリンピックは共生をうたう障害者のための大会にも関わらず、知的障害者には門戸が閉ざされている、またはその門戸は狭いという内容の記事です。 

 元々は車椅子を使用しなくてはならない脊髄損傷のある人を対象としたスポーツ大会として始まったこの大会は、徐々にその対象を広げ、現在では四肢の欠損や麻痺をなどの肢体不自由、脳性麻痺視覚障害、知的障害のある障害者を対象としたスポーツ大会となっています。

 知的障害のある人が参加できるようになったのは、1998年の長野冬季大会からでしたが、続く2000年シドニー夏季大会のバスケットボール競技で、スペインチームが知的障害者に混じって健常者をプレーさせたことが発覚し、以降知的障害の参加は見送られていました。その後、夏季大会では2012年ロンドン大会から一部の競技で参加が認められていますが、冬季大会ではまだ参加が認められていません。

知的障害の参加が進まない4つの理由

 では、なぜパラリンピックは、知的障害を積極的に参加させて来なかったのでしょう。その理由は大きく言って4つあります。

 一つ目の理由は、やはり現実に不正があったからです。その不正が可能だったのは、他の障害と比較して、障害の有無、程度を客観的に判断することが難しいことが挙げられます。2012年ロンドン大会で一部の競技で参加が認められたのも、シドニー大会から10年を超える時間の中で、ある程度客観的に判断できる検査方法が確立したからです。

 二つ目の理由は一つ目の理由とも関連がありますが、障害の種類と程度と運動機能への関係がまだまだ客観的に判断できないことが挙げられます。

 パラリンピックでは、障害の種類や程度によって不公平にならないように細かくクラス分けが行われています。例えば陸上の100m走だけで、男女それぞれに11種目にクラス分けされています。その数だけ金メダルがあるのです。

 一方、先日行われていた冬季大会のスラロームなどのタイムレースでは、障害によるハンディキャップを時間に換算し実際のタイムから増減させることで、公平なレースを作っていました。

 しかし、知的障害の場合、障害の程度による運動への影響を具体的に判断するのがまだまだ難しいのが現実です。もしかすると障害が競技にとってプラスになる可能性も否定できないでしょう。

スペシャルオリンピックスパラリンピック以上の規模

 三つ目の理由は知的障害、発達障害のある人のための世界レベルのスポーツ大会、スペシャルオリンピックスの存在です。

 1968年にアメリカで始まったこの大会は、1975年以降オリンピック、パラリンピック同様に2年ごとに夏季大会と冬季大会が交互に世界各地で開催されています。最も最近2019年にUAEで開催された夏季大会には、世界190の国と地域から約7000人以上が参加しています。冬季大会では2017年にオーストリアで行われた大会に107の国と地域から2700人のアスリートが参加しています。つまり、パラリンピック以上の規模の知的障害、発達障害のための世界的なスポーツ大会が行われているのです。

スペシャルオリンピックスのデータは、スペシャルオリンピックス日本の公式サイトによります。

スペシャルオリンピックス日本 公式サイト|Special Olympics Nippon – Official Website

 なお、パラリンピックには聴覚障害のある人は参加できませんが、聴覚障害者にもデフリンピックという世界大会が行われています。こちらの歴史はパラリンピックよりもはるかに古く1924年から始まり、近年はやはり2年ごとに夏季と冬季が行われていて、夏季大会には3000人前後が参加しているようです。

知的障害にこそ多様性の真価がある

 4つ目の理由は、そのスペシャルオリンピックスパラリンピックの理念、目指すものの違いです。

 知的障害や重度の発達障害の子供たちとスポーツをしていると驚かされることがあります。彼等の中にはかけっこで1番になっても、サッカーのような競技でゴールを決めても全く喜ばない子供がいます。私たちが当たり前だと思っている、ゴールを決めたり、かけっこで1番になることが、彼らにとっては必ずしも喜びではないのです。そうしたことが植え付けられた固定概念だということを知らされます。

 ボール遊びをすれば周囲の子供よりずっと上手にできる子が、ちょっと目を離すとグランドの端にしゃがみ込んで、巣を出入りするアリの様子を目を輝かせて見ていたりします。彼らの興味のバリエーションは、まさに多様性そのもので、その重要性を実感できるのです。

 スペシャルオリンピックスでは、1位から3位までのメダル表彰以外に全ての参加者にリボンの贈呈が行われます。かつては入賞者全員に同じメダルが配られていたそうですが、現在は金銀銅に変わっています。

 パラリンピックでは、国や地域で選ばれた選手が競技力を競い金メダルを目指しますが、スペシャルオリンピックスではみんなで楽しむことが目的なのです。同じように障害者を対象としたスポーツ大会でありながら、全く違う理念の大会なのです。

 だからこそ、毎日新聞の記事で紹介されていた山田雄太選手のように、パラリンピックで世界一を目指したいという選手がいても不思議はありません。

 一方で、一番になることだけが偉いのではない、それを目標にする必要がないという価値観の人が多い中で、パラリンピックのような大会を目指す人はどうしても少数派になり、対応が後回しになるのは致し方がないと言えるでしょう。

オリンピックは障害があっても出場できる

 忘れてはいけないのは、オリンピックは競技のレベルさえあれば、障害があっても参加できるということです。もちろん、障害の種類も問われません。パラリンピックは、対象となる障害が恒常的にあることが証明できなければ参加できませんが、オリンピックは誰でも参加できるのです。但し、義足など補助具を競技で使う場合には、その補助具が競技力を高めていないことを証明する必要がありますし、第三者のサポートを受けることもできません。

 近年のオリンピックでは、四肢などに障害のあるオリンピアンを見ることができます。私たちが気が付いていないだけで、もしかすると多くの知的障害のあるアスリートが参加しているのかもしれません。

 ですから、アスリート本人も関係者も、より高いレベルで競い合うことを目指すのであれば、パラリンピックではなく、オリンピックを目指すことができれば幸せなのかもしれません。

オリンピック、パラリンピックだけではない

 今回の記事を読むと、オリンピックに出場できない剣道の選手がおかれた状況に似ているようも思えます。剣道で日本一になった選手がオリンピックに出場できないのは、剣道やその選手がオリンピックから排除されているからではありません。

 剣道の日本国内の競技人口は大学生を中心に柔道や空手よりもはるかに多く、海外でも柔道ほどではありませんが、多くの競技者がいます。

 それでも剣道がオリンピック競技にならないのは、剣道の競技関係者が剣道は武道であると考え、オリンピックスポーツになるとその根本が失われると考えているからです。オリンピックとは別の価値観を持ち、オリンピックへの参加を望んでいないからです。

 ベースボール発祥の国アメリカでは、自国の野球選手が、積極的にオリンピックに参加することを望んでいる人は少ないでしょう。MLBの現役選手はMLB側の判断で原則オリンピックには参加できませんが、少なくともメジャーリーガーでそれに強く不満を言う人もいません。オリンピックで日本が優勝しても、アメリカチームにメジャーリーガーがいないことを非難する人はいないでしょう。国内リーグの頂点を争う試合を自らワールドシリーズと呼ぶ彼らにとっては、アメリカナンバー1がワールドチャンピオンなのです。

 それ以上にオリンピックに興味がないのは、アメリカンフットボールです。プロリーグNFLと大学リーグは圧倒的な人気と集客力を持ち、世界のスポーツの頂点をヨーロッパサッカーと二分する存在です。しかし、彼らはオリンピックに全く興味もありませんし、世界的な普及活動もほとんど手がけていません。アメリカ人のためのアメリカ人のスポーツなのです。

 かつて日本人は、アスリートの誰もが望む最高の舞台がオリンピックだと信じてきましたが、サッカーではそうでないことが多くの日本人にも理解されるようになってきました。

 オリンピック偏重の強い日本ですが、世界のスポーツを見回すと色々な価値観があることをもっと知るべきでしょう。

 そして、多様性への理解が重要な障害者スポーツの場合は、さらに様々な価値観を持ってスポーツに取り組み、またスポーツを楽しみ、周囲も様々価値観の上で支援をする体制を整える必要があるでしょう。

 そういう意味で言えば、新聞などのメディアは、個人個人の希望、夢を取り上げるだけでなく、客観的俯瞰的に多様な情報も加えて、正しい方向に世論を導いていって欲しいと思います。