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ワールドカップ雑記 〜11月23日・日本vsドイツ戦〜

日本サッカーが憧憬するドイツに勝利

 11月23日、ワールドカップ本番で、日本代表がドイツ代表に勝利しました。

 60歳以上の往年のサッカーファン、プレーヤーにとってその勝利は「ワールドカップ4度優勝の強豪国に」という枕詞では、収まりきらない特別なものがあったはずです。

 

 1964年に行われた東京オリンピックでベスト8に入り、最初の開花期を迎えた日本サッカーでしたが、この時、日本代表を指導していたのがドイツ人のテッドマール・クラマー氏でした。彼が実際に指導した期間は4年間でしたが、ヨチヨチ歩きの日本サッカー界に彼が残したものはその後の歴史に大きな影響を与え続けました。プロ野球を除けば国内最初となった国内リーグが、オリンピックの翌年から始まったのも彼の提言によるものです。もちろん、4年後のメキシコオリンピックでの銅メダルもその一つでしょう。

 以来、日本のサッカー界はドイツ(当時西ドイツ)のサッカーを理想として、世界を目指してきたのです。1993年に創設されたJリーグも、当時世界最高峰されたドイツ国内リーグ「ブンデスリーガ」をお手本としていましたし、創設に尽力した川淵三郎氏や長沼健氏らは、各チームの姿もバイエルンミュンヘンのようなドイツのクラブチームを理想としていました。

 

 1970年代に放送開始された東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のダイヤモンドサッカーという番組は、ヨーロッパのサッカーを動く映像で定期的に見ることができるほとんど唯一の機会でした。その放送は欧州選手権(ユーロ)の期間を除けば、ほとんどがブンデスリーガの試合でしたし、チャンピオンズカップ(現リーグ)も西ドイツのチームが中心だったと思います。その選択は、名解説で名を馳せた岡野俊一郎氏ら日本サッカー協会幹部の意向が反映したものだったのでしょう。

 日本人最初のプロサッカー選手、奥寺康彦氏が1978年から80年代にプレーしたのも、そのブンデスリーガでした。9シーズンに渡って西ドイツでプレーした奥寺氏は、そのほとんどを主力として活躍しリーグ優勝も経験しました。現在では多くの日本人選手が欧州リーグでプレーしていますが、当時の奥寺氏の存在感は、ドイツで15年目のシーズンを迎えている長谷部誠選手に近いものがあっただろうと想像されます。

 特に6シーズン在籍したベルダーブレーメンでは、のちに名将として名を馳せる若き日のオットー・レーハーゲルと出会い、超攻撃的なサイドバックとしてプレーしました。サイドバックのオーバーラップがまだまだ珍しかったその時代にあって、本来フォワードの奥寺氏の攻撃的なプレーは革新的なもので、現代サッカーの礎を作った一人と言っても過言ではありません。そうした活躍を動く映像として伝えてくれたのも、毎週1回放送されるダイヤモンドサッカーでした。

 かく言う筆者は、1974年に皇帝フランツ・ベッケンバウワー率いる当時の西ドイツ代表が、フライングダッチマンことヨハン・クライフのオランダ代表を破って優勝した、西ドイツワールドカップ決勝のテレビ東京の中継を見て、サッカーに開眼した一人です。

 一方で、精神論を重要視し、賞賛する日本のスポーツメディアは、ドイツ代表のプレースタイルについて、再三「ゲルマン魂」という言葉を使って賞賛しました。彼らの強靭な肉体とそこに宿る強いメンタルと、その両方に裏付けされた力強いサッカーに、日本のサッカーファンの多くは共感と憧れ、時には畏怖に近いものさえ持っていたはずです。

 もっとも、Garmanyの語源となる「ゲルマン」を示すゲルマン人は、アルプス山脈から北のイギリスを含む西ヨーロッパ全体に住んでいた白人の総称で、ドイツ人やその地域に住む人々を特定する言葉ではありませんから、ドイツ人の戦いぶりを持ってゲルマン魂というのは、本来は的外れです。

時代の変化に変貌したドイツ代表

 今大会の日本との対戦で久しぶりに見たドイツ代表は、私たち世代が憧れたドイツ代表とはかなり様子が違っていました。批判を恐れずその違いを端的に言えば肌の色です。かつて白人ばかりだったあのチームから白人がほとんどいなくなったのです。オランダやフランス、さらにイングランドでも移民やかつての植民地にルーツを持つ選手が多くなっていく中で、ドイツは最後の砦的な印象もありましたが、多民族化の波はこの国にも打ち寄せていたのです。

 その多民族化によってサッカーが多様化し、80年代から90年代のオランダや90年代後半のフランスのように、それまで以上に強くなれば良いのですが、ドイツに限って言えば今のところはそうではないようです。

 前回大会で1次リーグ最終戦で韓国に0-2で破れ、1次リーグで敗退したドイツは、今大会でも下馬評は低く、イギリスのメディアが日本戦での敗戦を予想していたほどです。そういう意味でも、決して、私たち世代が憧れていたドイツ代表ではないようです。

日本の勝利は森保監督の強い意志が呼び込んだ

 では、日本の勝利の要因はなんだったのでしょう。筆者は、森保一監督の強い意思だったと思います。

 前評判が高くなかったとは言え、あのドイツの強力攻撃陣を相手に、ディフェンシブな選手を最終的に4人にした決断には驚きです。特に前半、支配率80%の彼らの猛攻を見せられた後だけに、森保監督のあの決断は、彼の勝利への並並ならぬ強い意志の表れだったと思います。

 広島監督時代の森保監督の采配はよく知りませんが、日本代表監督になってからの彼の采配は、オリンピック本戦も含めて、彼の意志を明確に感じさせるものはありませんでした。

 選手選考は、その時の調子の良い選手とお気に入りを並べる平均的なもので、ピッチ上で表現されるサッカーの戦術でも、具体的なメッセージは少なく、ピッチ上にいる選手の得意不得意や、相手のサッカーに左右される印象を強く感じてきました。

 そうした采配ぶりはメディアやSNSで批判の対象となってきました。筆者自身も彼の采配を否定的に考えていました。

 最近、このチームの特徴としてよく取り上げられる高い位置からの連動したディフェンスも、今回のワールドカップを見ればわかるように、ほとんどのチームが用いている現代サッカーの基本と言えます。

 その森保監督が代表監督として初めて見せた強い意志が、この試合後半の超攻撃的なメンバーだったのです。これまで、後手を踏んでいる印象が強かった選手交代のタイミングも、この日は驚くほど積極的でした。

 これまでの、具体的な意思が見えない戦術も、後手を踏んでいたとも思わせた選手交代も、すべてこの試合のため、この本戦への準備だったとすれば、それもまた驚くほど強い意志に裏付けられたものだったと言えるでしょう。

森保監督の強い意志はチーム全体で共有されていた

 もう一つ言えば、この試合の超攻撃的な布陣は、森保監督だけでなくスタッフ、選手にも事前に共有されていたのではないでしょうか。私たちは驚きを持って迎えたこのシーンも、十分に準備されていた。だからこそ、選手たちも、ドイツ相手でも迷いなく自分のプレーができたのでしょう。

 ワールドカップ予選などで、彼の采配があれだけ批判の的になっていたにも関わらず、選手たちから批判の声がほとんど聞こえてこなかったのは、彼が選手との情報の共有、共感に心がけていたからなのでしょう。ようやく、一つの疑問が解けたようです。

 だとすれば、森保監督とそのスタッフは、私たちが想像もしなかったほど周到に、本番のための準備を重ねていたということになるでしょう。

それでも女神の微笑みは絶大な力

 森保監督の周到な準備があったとしても、最終的には、サッカーの女神が日本代表に微笑んでくれたことに尽きるでしょう。

 圧倒的にゲームを支配された前半にドイツがもう1点取っていれば、結果は全く違っていたでしょう。大敗の可能性すらあったでしょう。また、前半9分のオフサイド判定された前田選手のゴールがもし入っていれば、早い段階からドイツが目を覚まし、やはり圧倒されたかもしれません。逆転してから受けた試合終盤の猛攻でも、いつゴールを奪われてもおかしく無い状況が続いていました。本当に薄氷の勝利だったのです。

 激しい攻防が繰り返されたにも関わらずスコアレスドローに終わった、翌日のウルグアイー韓国戦の2チームに比べて、日本が具体的に優れていたと言える部分は見つかりません。ただ、結果的に相手より多くゴールが決めることができたという違いしか見出せないのです。

 言い方を変えれば、日本も韓国も、ヨーロッパや南米の強豪国と遜色ないサッカーができるまでに進化したと言えるのかもしれません。

日本サッカーの第3の開花期は始まったのか?

 しかし、本当の意味での勝負はここからです。もし、この後の試合で連敗するようなことがあれば、ただドイツに勝っただけの大会に終わってしまいます。万一、1次リーグ突破を果たせなければ、「ドーハの歓喜」は「ドーハの悲劇」に後戻りすることになります。 

 しかし、選手たちの試合後のコメントを聞いていると、今までの世代には無かったリアリティのある力強さを感じました。代表選手の主力は、香川真司長谷部誠らのような夢を追ってヨーロッパ中に世代から、すでに日本人選手がヨーロッパでプレーしている姿が当たり前の時代の中で育った世代に移ってきています。

 ヨーロッパでプレーすることが当たり前の彼らにとってはワールドカップの舞台は、間違いのない現実なのです。だからこそ、目標としている初の大会ベスト8は、彼らにとって夢の延長ではなく現実の目標なのでしょう。少なくとも、本田圭佑を中心に優勝を目標に掲げたブラジル大会とは全く違います。僅か8年の間の覚醒的な進歩を感じます。

 Jリーグ創設からワールドカップ初出場した1998年のフランス大会、2002年の日韓大会の頃までを日本のサッカーの第2の開花期とすれば、今回の大会が第3の開花期の始まりになる可能性もあります。次戦コスタリカ戦こそがその試金石となる試合になりそうです。日本サッカー協会がかかげる2050年大会に決勝戦出場という目標を達成するために、負けられない戦いが続きます。