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学校スポーツの権威主義とサッカー部暴行事件

秀岳館高校サッカー部で起こったことは

 熊本県の私立秀岳館高校サッカー部で起こっていた、コーチによる暴行と生徒の謝罪の動画の事件は、5月17日に段原一詞サッカー部監督が提出した退職願を学校が受理し、また同日暴行したコーチを学校が懲戒免職にしたことで、一応の収束を見たようです。

 もしかすると、コーチの暴行とそれを暴露した生徒たちの動画に関して、すぐに段原監督と高校が謝罪し、改善案を発表するなどの対応をしていれば、表面的にはもっと早く収束することができたかもしれません。

 しかし、段原監督、そして学校は対応を誤りました。告発動画に関係した生徒たちに実名、顔出しで謝罪動画をアップさせたのです。段原監督は情報番組に出演して生徒たちが自主的にやったことだと明言していましたが、その後段原監督自身が告発動画アップした生徒を激しく叱責したり、謝罪動画の制作を指示する音声が公表され、謝罪動画は段原監督が積極的に関与し作らせ、アップさせたことも明らかになりました。

 さらに、段原監督自身も生徒に対して暴力を振るっていたと証言するOBも現れ、自らを「被害者」だと主張してきた段原監督自身が加害者であることも明らかになりました。

 もっとも、生徒たちも一方的に被害者とは言えないようです。現役の生徒が今年の入部予定の中学生に対して暴力を振るったことも報道され、警察も介入しているようです。活動の中で日常的に暴力を受けている生徒が、自分たちよりも弱い立場にある新入生に暴力を振るうことは当然の流れかもしれません。暴力の連鎖と言えるでしょう。

 果たしてこうしたことは、この学校、このサッカー部だけのことでしょうか。

主な経緯

 4月20日 コーチの暴行動画が拡散していることを学校側が把握
 4月22日 生徒11人の謝罪動画アップされる(23日削除)
 4月25日 学校が生徒たちに説明会
        段原監督が情報番組に生出演して謝罪
        段原監督が生徒を叱責する音声が公開
 4月26日 コーチが暴行容疑で書類送検
 5月4日   保護者への説明会で段原監督が謝罪
 5月5日   学校長が記者会見、暴行を認めで謝罪
 5月13日 監督が日常的に生徒に暴力を振るっていたことをOBが証言
 5月17日 学校が段原監督の辞職願を受理、コーチを懲戒免職

明治から続く学校スポーツの権威主義

 生徒たちの告発もその後の反省PRも動画配信サイトを使って行われ、テレビ番組もネットで発信された情報を積極的に取り上げて、さらに拡散させました。こうした流れは現代的なものですが、事件の本質は日本のスポーツ界の伝統的なシステムと体質に起因しています。

 日本の学校スポーツでは、学校の教員という権威とチームの監督というふたつの権威が重なります。もちろん、本来は学校の教員は職業であって権威ではありませんし、スポーツにおける監督もチーム内の役割であって権威ではありません。

 しかし、日本では伝統的にどちらのポジションにも権威を与えています。そのふたつの権威を持つ、学校スポーツの監督という存在はもはや権力者と言ってもいい存在です。

 日本では、スポーツに武道と同一の価値観を見出し、その競技力の向上のための過程を鍛錬と考える、軍事教育にも繋がる考え方が明治時代から続いています。学校スポーツ現場では、体育の授業でも部活動でも、その理念に基づいて指導、教育が行われてきました。特に部活動ではその徹底が行われて、その指導、教育を行う指導者=監督を権威の対象とすることは、とても効率的だったはずです。

 第二次世界大戦後、日本にもアメリカから自由思想が持ち込まれて、スポーツを楽しみ、遊びと捉える考え方が持ち込まれた後も、学校スポーツの現場は長く状況は変わりませんでした。

 ようやく具体的な変化の兆しが見られるようになったのは、今世紀に入ってからではないでしょうか。ハラスメントの概念が企業を中心に持ち込まれて、遅れて学校の教育現場やスポーツ現場でも、暴力、威圧的な態度や言動に厳しい視線が向けられるようになったのです。

 しかし、学校という閉鎖的なコミュニティでは、それでも旧態然とした考え方やシステムが残ってきました。一般的な社会の常識では考えられないような規則を持つ校則が今もなお残っていることがその象徴です。そして、特に監督が絶対的な権力を持つ中央集権的な組織構造の部活動には、最も古い体質が残っている場所なはずです。

 Jリーグで、多年にわたるパワーハラスメントが発覚しチームから解任された監督が、1年も経たずに大学サッカーで現場復帰したことは、日本の教育現場の体質、学校スポーツの体質をよく表しています。

勝利至上主義が生む部活の暴力体質

 秀岳館高校の場合、コーチによる暴行は最近になって突然始まったこととは考えづらく、当然、これまで生徒が学校側に全く相談していなかったはずはありません。報道にあるように、入学予定者や新入生が次々と辞めたとすれば、部内に大きな問題があることを学校も承知していたはずです。

 にも関わらず、学校が何も対応しないとすれば、学校長をはじめ学校自体が段原監督のそうした指導方法や事実を黙認していた可能性が高いでしょう。

 こうした行為が横行し、黙認される理由のひとつは、学校スポーツ、特に強豪校の勝利至上主義があります。多くの強豪校の部活動で、中学校なら中学の全国大会で、高校なら高校の全国大会での優勝が求められています。生徒たちの将来に向けた競技力の向上やスポーツを通した人格の形成よりも、学校の代表として全国大会で優勝することが部活動の目標になっているのが実態なのです。

 どうして勝利至上主義がまかり通るかと言えば、私立の学校の場合、学校経営と直結しているからです。全国大会で結果を残せば、知名度があがり生徒集めに有利になるのです。ですから、野球、サッカー、ラグビー、バレーボール、バスケットボール、陸上長距離、柔道など、メディアでの露出がある競技の方がそうした傾向が強くなります。特にチームスポーツの全国大会はすべてトーナメント戦で行われていますから、試合に勝てば勝つほど、露出が増えます。全試合が全国放送でライブ中継される甲子園の場合、決勝戦まで進んだ場合の露出を広告費に換算すると、とてつもない金額になると言われています。

 だから、学校側も部活内や監督の指導に多少の問題があるとわかっていても、結果に繋がっていれば多少のことであれば目を瞑るでしょうし、場合によってはその隠蔽に積極的に加担する場合もあるでしょう。それが生徒のリクルーティングに効果のある実績のある監督の場合はなおのことなはずです。

 こうしたことは、近年多発している大学スポーツでの不祥事でも同様なことが言えます。

暴力的な指導を信望する親たち

 明治から学校スポーツに続く権威主義や暴力や暴言を肯定的に考える価値観が残っているのは、学校や指導者だけではありません。指導を受ける生徒や特にその親たちに強く残っています。

 生徒に厳しいトレーニングに向き合わせて、全国制覇などの高い目標を達成するには、指導の中にある程度の暴力や暴言は必要だという考え方を持っているのは親たちです。さらに部活動を通しての人格形成にもそれが必要だと考えて、暴力や暴言による指導をありがたがる人はまだまだ相当数いるのです。

 今回の場合も、監督、コーチから暴力を受けていた生徒たちの中には、自分の親に相談した生徒もいたはずです。にも関わらず、告発動画が拡散されるまでこうした状況が発覚しなかった理由には、権威を組織や守ろうとする学校の姿勢と並行して、親のサイドにも指導者の暴力的な言動を肯定的に考える人が少なからずいたと考えるべきでしょう。

 近年では、本来家庭ですべき躾や人格教育を学校に求める親たちの要求が、部活動を含めた校内での教員や指導者の暴力や暴言を助長しているようです。

 こうした傾向は、後遺症のリスクのある負傷の可能性もある小学校の組体操が、親の希望で授業から無くならないことと共通しているかもしれません。

 親たちの誤ったニーズが、学校の教育現場や部活動での暴力や暴言が無くならない最大の理由であり、校内よりもむしろ親たちの意識を変えることの方が難しいことかもしれません。

求められる技術と人望による指導

 もちろん、そうした権威、権力を利用せず、技術と人望によって指導を行なっている指導者も数多くいるはずです。

 筆者は、2010年ごろに高校野球の関東の強豪校の監督にお話を伺ったことがあります。甲子園での優勝経験も複数回あるそのベテラン監督は、当時、指導方法の変更の必要性を語っていました。かつてのような一方的に押さえつけるような指導では、生徒が付いてこなくなったと言っていて、コーチとともに新しい指導方法に挑戦していると話してくれました。残念ながらその高校はそれからまだ甲子園の土を踏んでいません。

 結果を出してきた監督がかつての指導方法の反省を明言したり、指導方法を明らかに変更することは珍しく、過去の経験に基づいた指導を続けることが少なくないようです。

 一方で、指導をはじめた初期には技術と生徒との相互理解で指導をしていた指導者が、結果を出し内外からの評価が高まるにつれて、権威に甘んじた一方的な指導に変化する例も枚挙を問いません。

求められると透明性と学生アスリートを守る組織

 暴力や暴言が蔓延している部活動は、戦績としての結果を出せたとしても、生徒たちのその後の人生に多くのマイナスの要素を残しているはずです。例えば、暴力、暴言によって一生消えないメンタル的な障害を負う場合もあれば、暴力が日常化した環境に長くいたことで暴力を振るうことに抵抗がない人間を作る場合もあるはずです。

 ですから、部活動がそうした場になっている可能性を考え、学校、親たち、さらに第三者が厳しい目で部活動と監督の指導をチェックしていく必要があり、そのための透明性が重要になります。

 また、今後、部活動の現場の指導は、教員から競技専門のコーチに移行していきます。外部に委託するのであれば、相応しい人材を十分に吟味した上で、暴力や暴言を抑制するための透明性を担保するようなシステムを構築することが学校側の責任です。

 安倍政権下では、大学スポーツの産業化のために、アメリカのNCAAを参考に日本版NCAAを作ろうという動きが政財界と大学関係者の間で活発化しました。

 しかし、NCAAは学生アスリートの競技中の死をきっかけに作られた、アメリカ国内の大学スポーツにおけるアスリート個人の安全と公平性と権利を守るための組織です。決して大学スポーツを産業化するためのシステムではなく、現在の繁栄はそうした学生スポーツの本質を大切にしながら積み上げてきた成果です。

 日本にNCAAのシステムを導入するのであれば、金儲けの道具にするのではなく、学生アスリートを守るためのシステムの本質を研究し、中学、高校も含めて学生スポーツが健全化するためのシステムを構築するべきです。